あなたのkugyoを埋葬する

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パトナムからスティッチへ

 この記事で述べたパトナムへの疑念だが、やはり問題をとらえそこねていた。

  さて、これで「われわれは水槽の中の脳である」という文は偽であることが証明できた、というのは、認めてもよい。水槽の外の本物の世界では、そもそも脳なんて器官が存在するかどうかもわからないわけだし。

 しかし、ここから「水槽の中の脳」説が否定された、と考えることはできない。なぜなら、「水槽の中の脳」説とは、「われわれは水槽の中の脳である」という命題とは異なるからだ。

徒歩でかちかち - kugyoを埋葬する

 このように書いたけれども、これはおかしい。つまり、「われわれは水槽の中の脳である」というような命題がすべて偽であるのだから(「バケツの中の脳である」なども偽)、われわれは「水槽の中の脳」説を否定することしかできない。
 すなわち、「水槽の中の脳」説のような、世界のありかたについて、私たちは命題の形でしか言えないだから、
・世界の"実際の"ありかたは、われわれの用いる命題とは無関係な場合がある
という立場をとらないかぎり、ということは
・世界の"実際の"ありかたなどというものを規定するのが、そもそもわれわれの用いる命題である
という立場をとる限り、「水槽の中の脳」説は説としても否定されるし、世界の"実際の"ありかたとも反することになる。
 この後者の立場をとらないならば、私が書いてしまったように、「その説を述べた命題はすべて偽なのに、事実としてはその説は真である」というような事態が存在することを認める、ということになる。だがその場合、われわれは真/偽の定義をあやまっていたのだ、という結論に達せざるをえないだろう。


 そして、パトナムからじつはそのように議論を進められる可能性がある。たとえば、パトナムの議論を「わたしは夢を見ている」という文に適用してみよう。夢を見ているとき心に抱いたこの文に使われている語彙は、ほんとうは"夢-わたし"とか"夢-夢"であるのだから、「わたしは夢を見ている」という文は偽である、ということがわかる(夢を見ていないときでも、現実の外に対して指示をしようとする文はすべて偽)。
 ところがこれは明らかに直観に反する。「わたしは夢を見ている」と夢のなかで思ったことがあるひとは多くいる。その文がすべて偽である、というのなら、それは真/偽(ひょっとしたら文とか命題とか)の定義をあやまっていたと考えるべきではないだろうか。あるいは、命題の定義が失敗していた場合のバリエーションとして、
・世界の"実際の"ありかたは、われわれの用いる命題とは無関係な場合がある
という立場を受け入れる必要があるのではないか。または、
・思う、などの信念の問題について、われわれの真/偽その他の定義を修正する必要がある
とか。


 ここから話は『知識の哲学』につながっていくけども、その話はまたこんど。とりあえず、私の最初の理解があやまっていた可能性も検討するため、再度『『理性・真理・歴史』を読み返してみよう。


 ふー、忍耐のストレスが少しは癒された。