あなたのkugyoを埋葬する

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「ネタバレの美学」ワークショップの感想

「ネタバレの美学」ワークショップの感想

 2018年11月23日(金祝)に,公開ワークショップ「ネタバレの美学」で話題提供した.発表スライドはresearchmap上ですでに公開しており,年度明けぐらいの時期で論文化の予定もあるが,ここでは,次の問いに答えを与えたい:この発表はどうやってできたのか?
 話は2010年にさかのぼる.時系列を追って見ていこう.

2010年

 私がTwitterを始めて2年ぐらいたったころだ.当時は分析形而上学の勉強をさせてもらいながら,文学の哲学(どのような文学作品がよい文学作品であるか)にアプローチする方法を考えていた.したがって,このころは形而上学と,ちょっとだけ認識論の議論とに関心があり,分析美学には詳しくなかった.
 そういう状況でネタバレについて最初に考えを公にしたのがこれ.

 この時点ですでに発表の基本的な筋ができていたことがわかる.
 発表の基本的な筋というのは以下の3点だ.

  • 我々がよくなじんでいる規範からすると,ネタバレ行為は奨励されるはずだ.
  • にもかかわらず,ネタバレ接触に否定的反応を示すひとがいる.こういうひとがすべてアホだとかネタバレフォビアだとかいうのでないかぎり,そこには何かちゃんと理由があるはずだ.
  • その理由は,ネタバレ情報の知識としての性格に求めるべきだ.

 当時は,認識論における証言〔testimony〕の研究を知らなかったはずなので,証言は正当化としてつねに疑わしいと思っていたふしがある.発表を終えた2018年現在でも,ネタバレについては証言による正当化がうまくいかないのではないかと思っている.しかしこれは今後の課題だ.
 この時点では,今回の登壇者のおひとりである高田さんと少し会話し,それで議論が途切れた.

2011年

 ふたたび,こんどは今回の司会・モデレータを務めていただいた稲岡さんを起点として,ネタバレについての美学的議論が生じる.様子はtogetterにまとめられている.この議論でも,初回鑑賞の楽しさを見積もる方法があるか,という,これまた認識的な問題が取りざたされている.
 当時の私の意見はこんな感じ.


 
 この時点でまだ形而上学的な関心しか持っていないことがわかる.形而上学ではなんでも数え上げの基準(つまり同一性基準)を明らかにしたがる.
 さらにこの直後,どういうものがネタバレ行為なのかという議論が盛り上がる.この時点で,議論に参加していた今井晋さん(現・IGN Japan)から,セッションの提案が出る.

 このときの私の関心は,「映画館に行って上映がはじまったのに,スクリーンのまえでデカい立て看板を振り回しているおっさんがいて,じゃまで映画を鑑賞できない」という例を,ネタバレの事例からいかに除外するか,という点に向いていた.
 立て看板事例で,このとき立て看板にどんな情報が書いてあるかはあまり関係ない——たとえそれが,これから見る映画のネタバレ情報であろうともだ.こういう妨害はネタバレの構成要素をおおむね満たすもので構成されているように思える.ネタバレ情報があり,その情報を載せたものを用いて,私の鑑賞が妨害されている.しかし,これはネタバレによる妨害とはぜんぜん違うように思える.
 この議論を発展させると,ネタバレを特別に悪くしているポイントを鑑賞妨害に求めるべきか(特殊なしかたでの妨害だというだけか),それとも,ネタバレのポイントは鑑賞妨害にはないのか,という議論になるだろう.

2012年〜2017年

 特に動きはないが,分析美学の勉強をさせてもらうようになり,鑑賞における美的規範について,アナーキーな見解をやや弱めた.(美的判断の理想的観賞者説に一定の敬意を払うようになった)
 このあたりから,ネタバレの自律性説への肩入れを始める.ネタバレ情報も知識であり,知識に価値があるならば,ネタバレ情報には価値があるはずだ(先にあげた「我々がよくなじんでいる規範からすると,ネタバレ行為は奨励されるはずだ」の一種),という主張を仮想敵として,それをどういなすかを考えはじめたはず.

 知識にどういった価値があるのか,という問題は,文学作品にどんな価値があるのか(どの価値を高めたらいいのか)という興味とリンクしている.
 なお,この時期は本格SFミステリ小説の実作を進めており,ネタバレについて実践的にどうふるまうかも検討していた.連作の1作めのネタバレを受けるかどうかで2作めの印象があまり変わらないようにしよう,と考えており,むしろ,ネタバレを受けたのに印象が変わらないことに驚いてもらおう,と作戦を練っていたように思う.これはなかば実現している.

2018年(〜10月)

 ひきつづき現代美学研究会にお世話になって勉強をさせてもらう.(しかしそろそろ非専門家がいつづけるには長居にすぎるだろうとも思っている)
 この研究会は終了後に参加者の一部が食事に行くのだが,比較的遅い時間から始まって遅い時間に終わるので,入店できるところが限られてくる.(そもそもいろいろな事情でそんな時間にメシ食ってから帰るわけにいかない参加者も多い.)食事中のよもやま話のひとつとして,美学的な議論が始まることもある.5月に公開された映画の話をしていたときだったと思うが,ネタバレはどこがそんなに問題なのかについて議論になった.
 これが6月24日のことで,そのときの食事の参加者が,今回のワークショップの提題者4人だった.その場で,ネタバレに伴う事象(自発的ネタバレの悪くなさ,ネタバレ警告による悪さのキャンセル)をどう説明するか,ネタバレを受けて鑑賞するのとそもそも鑑賞しないのとでどっちがマシか,という話になり,いくつかの対抗しあう説明が考えられることがわかった.


 今回の主催者の森さんはこの議論に鉱脈を感じ,即座に研究計画に取り入れ,それを所属機関に採択させた.もちろんネタバレだけに焦点を絞ったものではなく,もう少し幅広い分野を扱う計画だが,そのひとつとしてワークショップの提案が可能だということで,打診をいただいたのだ.これが6月末のこと.
 その後も森さんは,いくつかの研究会でネタバレについて意見をヒアリングしたそうだ.その結果,そもそも説明すべき直観じたいがけっこう割れていることがわかり,その整理をしたうえでないと議論が成り立たないのではないかということになった.そこで,ワークショップのようなちゃんとした場を設けて,すり合わせたうえで美学的な議論をする機運が高まった.
 このころは,ネタバレに美的な難点はいっさいない,という強い立場をとっていた.知的自律について議論したらネタバレへの否定的反応を正当化できるし,それで十分だ,という感じ.ほかの学会との兼ね合いを見て,日取り・教室を決めたのが7月11日ぐらいだったと思う.哲学若手研究者フォーラムがあり,そこでも反応をいろいろ伺う.
 先ほども書いたとおり,提題者は発端でたまたま食事に来ていた人間で構成されていて,きれいに立場が分かれていたとはいえ,人選としてはあまりフェアな決めかたとは言えない.そこでほかの登壇者の候補がないか,などをあれこれ模索していた.結果的にそれは達成できなかったが,少しでも多様性を出すために,なんらかフェミニストとしての立場を打ち出そうとは思っていたし,ご意見をヒアリングするときは,ふだん交流のないひとにも積極的に話をうかがうように心がけた.
 8月前半までは フィルカル vol3(2)への寄稿のご依頼があり,それをまとめているうちに過ぎた.本来は哲学若手研究者フォーラムで発表予定だった(日程がきびしく申し込まなかった)ものの一部なので,すぐできそうなものだが,やはり難しい.
 というわけで別件で苦労していたはずなのだが,記録を見ると,なんと締め切り直前にネタバレの心理学実験の論文を読み,提題者間で共有していたふしがある.現実逃避のためにべつの論文を読んでしまうのは,一見すると正当化できるふるまいのように思えてしまうので,非常によくない.ともあれこのころには,美学・倫理学ではネタバレの先行研究がほぼないことがわかってきた.
 脱稿後,日本でネタバレ研究している中村聡史の論文をいくつか読む.なんとかしてワークショップにお招きしたいなと思うものの,忙しくて切り出せずに終わった.
 ネタバレについての前理論的な直観を探るべく,ミステリィ論をあさったのもこのころ.
また,メディア研究においてネタバレ(プロモーション,予告編,ファンのMAD)をパラテキストとして扱った,Gray 2010, Show Sold Separatelyを知り,少し読む.発表では最終的にまったく触れられなかったが,なにがパラテキストなのか,という問いは今後も考えることになると思う.ヴィデオゲームの研究に置いても,重要なところだろう.(Harvie 2017
 なおGrayの文献はオープンアクセスになっており,NYU PRESSがすごい.
Show Sold Separately: Promos, Spoilers, and Other Media Paratexts
 9月末,フィルカル vol. 3(2)が発売され(フィルカル Vol. 3, No. 2 ―分析哲学と文化をつなぐ―),ネタバレワークショップの日取りが登壇者の名前つきで発表された.あとには引けなくなったので,本腰を入れて研究するため,認識的徳の概説書などを購入する.
 10月は美的判断の自律性についての論文を読んでいた.これは,春に勉強させてもらっていた不一致の認識論からのしぜんな延長だった.自分と同じぐらいの能力があることがわかっている他人と意見が食いちがう,ということがときどきある.そういうとき,食いちがっているというその事実だけで,自分の意見を捨てる根拠になるだろうか? というのが,認識論における不一致の問題だ.そして美的判断の自律性主張とは,美的判断においては特別に,食いちがいによって意見を撤回したり弱めたりしなくていいのだ,という主張だ.これがほんとか? ほかに説明のしようがあるんじゃないのか? というのをめぐって,わずかながら議論がある.
 10月10日,ネタバレがAbema TVで特集される.世間的なビッグウェーブが来ていることを感じ,盛り上がる.その勢いでScrapBoxを立てて(非公開),アイデアや文献を書き出した.

2018年11月

 11月初旬,タイトルを決める.あまり凝ってもしょうがないので「なぜネタバレに反応するのか」としたが,ほかの提題者は副題を決めていてかなりわかりやすいものになっていた.
 このころほかの原稿(のちにあきらめる)の締め切りがあって忙しくしていたのだが,こちらの不注意で他人に不利益を複数,それも並行して起こしてしまい,自分の傲慢さ(わたしゃわるくなーい!と言ってしまいたくなるおろかな気持ち)を矯正して,それぞれ非公開の場で謝罪・説明をした.しんどい時期だった.金銭抜きで謝罪をするのはけっこうたいへんで,「ハイハイ私がぜーんぶ悪うござんしたー」とやってしまいがちだがそれは謝罪になっていない.どこが問題だったと思っているのかを自分で提示し,納得を得る必要がある.そして自分の問題点に向き合うのはそれなりに心理的に厄介なことだし,まして,数ある自分の問題点のうちどこに納得を得ればいいのかというのをちゃんと理解するのは知的にひと仕事だ.まあ,こういう理解をうまくできるようになりたくてフェミニズムの研究をしているのだから,ちゃんと自分の非を特定できなきゃ意義がない.ご迷惑おかけしました.
 この時期は自分の発表を練るだけでなく,ほかの登壇者の発表内容も検討した.もちろん最初から完璧ということはなく,いろいろ疑問点を出したり,用語の統一をはかったりして,修正を施していく.


 自分の立場は口頭では述べていたものの,なんの形にもアウトプットできておらず,けっこう焦っていた.読み原稿の形にまとめきれないと判断して,箇条書きをそのまま提示できるスライド形式1本で押し通すことに決める.
 11月18日,発表1週間前になってスライド形式の資料ができあがった.この時点での議論は以下のように進んでいた.

  • まず事例を出す
  • 「ネタバレ奨励派」と「ネタバレ禁止派」との「道徳的対立」として問題を素描する
  • ネタバレのwrong-makerの候補をあげる
  • 「ネタバレ奨励派」の「挑戦」に答えていく.そのなかには「道徳的対立などない」というものも含まれる.
  • wrong-makerを特定し,ほかのものはwrong-makerではないと言う
  • わたしってば最強ね! と宣言する

 この流れはまずい
 まず,「挑戦」へのいくつかの答えは観察に依拠したもので,その観察はあまり強い根拠になりそうにない.端的に言えば観察の数や信頼性が怪しいし,解釈もほかを押しのけるほど強いものになっていない.討論の結果,これは単に発表の仮定・作業仮説として扱うことにした.
 最初に事例を出すのもよくない.事例に対する直観が役に立たない,という経験的知見がある以上は,事例はイメージを持ってもらうためのものでしかなく,議論には使えない.おもしろい例ではあったが,その役割を減らす必要があった.
 最初に出すべきなのはむしろ,この発表がどんな動機から来ているかだ.これは発表の目標とイコールではない.なんでそんな目標・ゴールを発表のオチにすることに決めたのか,を伝える必要があるのだ.ダメな答えは「おもしろいなと思って,いろいろ研究して,いまここまでやりました」というものだ(ないよりはまだいいが,これを動機と呼んだら快楽殺人鬼みたいになってしまう).幸い,この点は8年近く考えているので,「倫理的対立を,片方がバカだとか片方が自己欺瞞的だとかいう破壊的な結論に陥ることなく,気づかれづらいが重要な倫理的原則を持ち出すことで調停する」という答えが出せる.出せるからにはそれを明示すべきだ.
 さらに,wrong-makerとしてほかのものがなく,この発表が主張するものだけである,というのも怪しい.べつに共存できないものでもないので,単に主張を妥当な強さになるまで弱めた.
 最後に,ネーミングの問題があった.「奨励」(どんな制約もなしにどんどんネタバレしよう)はまだしも「禁止」はあいまいだ(自分のまえでだけ禁止なのか,それとも普遍的原則として禁止なのか? どちらを主張している派閥として描くのかをはっきりさせるべき).さらに,これを「派」と呼んでしまうと,とたんにオーディエンスは自分がどちらの派閥なのかばかり考えるようになってしまうだろう.
 ネーミングは,プログラミングを少しでもやったことがあればわかると思うが非常に重要で,違うものに同じ名前がついていると議論がまちがいなく混乱する.というか,単一の議論においては「こんなの文脈でわかるだろー」と思ってしまうしそれで済むこともあるのだが,べつのひとが見たり,べつの議論に進んだり,あとから振り返ったりしたときに,一気に混乱の度合いが高くなる.ちょっと冗長かなと思っても,必ず名前空間を汚さないように分離すべきだ.今回は「ネタバレ」を「ネタバレ接触」「ネタバラシ」「ネタバレ情報」の3つに分けるなど,誤解が生じる余地を少しでも小さくしようと,登壇者間で心を砕いた.
 質疑の方式を決める打ち合わせのタイミングで,むりやり検討の時間を割いてもらい,他の登壇者の皆さんから上記を含むコメントを得て,修正をかけていった.
 検討を経て,配布資料ができあがったのは当日のあさ.森さんがご好意で資料印刷を申し出てくださり,その期限の2分まえだった.slideshipmarkdownから作成・位置調整し,印刷ver(白背景)をpdfにエクスポートして送付する.ここはたぶんMarpで作るべきだったが,ディレクティヴが指先からサッと出てこなかったのであきらめた.
 その後,投影ver(黒背景)を作りながら,発表の練習をする.省略なしでぶっつづけでしゃべって,それでも与えられた発表時間を10分ほど超過することがわかる.おまけとして扱うだけでよい箇所は印刷資料で各自見てもらうことにして,省略箇所を決めつつ,この期におよんで見つかった表現のバグを改修して,最終的な発表スライドを作り上げた.時間はまだ余裕があるだろうと思っていたら,移動を考えるとけっこうぎりぎりになり,急いで身支度をする.
 集合時刻である12時半に現地入りした.稲岡さんから新幹線の車内で作ったという論点まとめ(あってほんとに助かった!)を共有してもらったり,高田さんの発表に言及するところがあるのでおかしなまとめになっていないかどうかの確認をとったり,ご好意でいただいたお弁当を食べたりしながら発表開始を待つ.
 発表中は小道具を2つ使いながら(モノが出てくるとそれだけでちょっとおもしろいよね),プランどおりにすべてしゃべりとおした.序盤,マイクが入ってなかったのと,スライド送りのたびに端末のところに動いていたのがミスだろう.(40回ぐらい教壇中央と端とを行き来した計算になる)
 発表後はちらっとSNSを見つつ,発表者間の意見の最終的な対立点をメモする.おおむね,事前の検討で明らかになっていた点で,質疑がスカスカになった場合に自分から振ろうと思っていた.
 そんな心配はしかし不要だった.稲岡さんのファシリテーションがうまく,最後まで身がたっぷり詰まった感じの質疑になった.松永さんの発案でsli.doを投影したのもすごくよかったと思う(松永さんや森さんは講義で利用経験があるそう).
 質疑のあと,事務処理を済ませて打ち上げへ.

反省点

 質疑や打ち上げで,源河亨さんを交えて話し合って明確化できたのだが,私の立場の問題は大きく分けて2つある.(私ははじめ2つめだけだと思っていた)
 1つめは,「認識的統合性説」がなにについての主張なのかが,じつのところあいまいであることだ.
 まず,心理学的主張として解釈すると以下のようになる.「我々は,認識的統合性という規範を,実行できているかどうかは別として奉じている.そのため,ネタバレ情報の入手を,無意識に認識的挑戦として受け取ってしまう.だから,居心地の悪さが生じるのだ」.ここで「無意識に」と入っているのは,「ネタバレされて検証タスクが来たなんて思ったことないけど?」という主観からの反論をいなすためだが,こんな主張はとうぜん怪しい(なんで私がみんなの無意識についてよく知っているのかわからない).ただ,これはおそらく検証可能な主張で,認識的統合性という規範を重く受け止めているかどうかと,ネタバレ情報を不快に思い避けるかどうかとのあいだに,相関関係が見えてくればよいはずだ.(実際,そう解釈できる心理学的データもある.)ただ,検証できる主張と検証された主張とはずいぶんちがうので,単なる仮説にすぎませんというこの解釈は,まだあまり説得力がない.
 次に,規範的主張と解釈すると以下のようになる.「我々は,認識的統合性という規範を,実行できているかどうかは別として奉じている.そのため,ネタバレ情報の入手を,認識的挑戦として受け取るべきだ.ところが,これはいわば認識適合性の暴走とも言うべき事態で,特に望ましいことではない.したがって,我々は認識的統合性規範とべつの規範とのコンフリクト状態に置かれることになる.もし,故意にこうしたコンフリクトを顕在化させ,我々を操作しようとするならば,それは規範の悪用であり,すなわち悪行である」.この主張は,ネタバレを一種の認識的な不正義として,つまり,まずく単純化されたがために認識的規範として知られるものが一部のひとに根拠なく不利に働いてしまっているという例として考えよう,というものだ.これは,なんでそんな規範の不整合がこれまで放置されてきたのか,という疑問を呼び起こすが,認識的な不正義というトピックが近年のものであり,それまではあまり注目されていなかったという点をあわせて考えると,「不具合に気づくのが難しいから」と答えられるように思う.
 2つめは,ネタバレを検証するなどということが,私が主張するとおりの合理的な態度であり,認識的に課されるタスクであるのかどうか,という点だ.いやがらせを狙っているひとからの証言を不採用に付すのはまだしも,たとえば公式に発表されているパンフレットをチラッと見てしまったケースで,頑として「パンフレットの情報を自分でたしかめねば! いやー,でもめんどくさい! よし,映画見るのやーめよっと」と考えてしまうひとは,あまり合理的とは言いづらいように思う.これは検討段階でも出ていた難点で,最後までちゃんと答えることができなかった.認識的統合性がどんなことを要求するのかをよく考えることで(特に,ほかの認識的徳とどうちがうのかを考えることで),なんとか答えられるかもしれない.
 この発表では,自分すら抱いていない直観からスタートするという不可解なことをしていないか,という疑問も提示されたのだが,これについては私はちがうと思っている.私は,「他人からなんか言われるのは,その内容にかかわらずうざったいものだ」という直観を持っていて,これがどこまで押しとおせるのか,という関心を抱いているのだ.正当な要求だろうと,妥当な知識だろうと,自分でそれを見出すのと,他人にそれを指摘されるのとでは,ものすごく大きな差があるように見えるし,そこに一切の差を見出さないというのは,むしろ不合理であるように思える.これがなんらかの規範に支えられているのだとしたら,それはなんなのか,というのが気になってしかたないのだ.(なんの規範にも支えられていない,単なる悪徳であるのかもしれないが)
 

おわりに

 わりと自分じしんのことに終始して記述してしまったが,ほかの登壇者もそれなりの紆余曲折を経て,自分の主張がどのように正当化しうるか,どんな直観をとらえているかを探り当てていた.この議論は今後も発展の余地があると思うし,私じしんもまだ探究すべき問題がすぐに思いつく状態だ(パラテキスト,ミステリィ評論におけるネタバレの扱いの歴史).
 なお,ネタバレについての議論はSNS上でもいろいろされていて,そこでは哲学的に興味深い根拠が提示されることもある.おもしろかったものを以下にリンクしておく.

 ここまで書いていなかったが,理由ベースでものを考えるようになったのはまちがいなく鴨川メタ倫理学読書会で勉強したおかげだし,立論・チャレンジのようなモデルで議論を組み立てているのは弁論部に籍のあった友人のおかげだし,自律をキーにして考えを進められたのは関係的自律性について行為論読書会で勉強させてもらったおかげだし,認識的徳についてアクセスできるほど不一致について見当をつけられたのも,認識論の読書会(主催のかたのブログ)や,美的判断の意味論(Young 2017)の読書会のおかげ.今回の議論は頭から尻尾まで他人に負うていると言ってけっして言い過ぎではない.まあ,最終的な文責はもちろん発表者の私にあるわけだが.


ともかく,このワークショップに取り組んだおかげで,以前から抱えていた課題をこなすこともできたし,議論一般についても得るところが多かった.主催者の森さん,登壇者・モデレータの皆様,ご来場いただいた皆様,準備ちゅう議論におつきあいいただいた皆様,その他サポートいただいた皆様,どうもありがとうございました.

 まだまだ行くよ! あんたの統合性,ブッとばすから!