西村の議論について考えていたら3カテゴリにまたがってしまった
こんどから入手した論文の入手先を記録しておくことにしよう。どこのデータベースを調べて入手したのか分かると便利だろうから。
データベースhttp://www.informaworld.com/smpp/home~db=allから、以下の論文を入手。
- [Lewis, D. and Lewis, S. 1970] Holes, Australasian Journal of Philosophy, 48-2, pp.206-212.
データベースJSTORから、以下の論文を入手。
- [Lewis, D and Lewis, S. 1996] Casati and Varzi on Holes, The Philosophical Review, 105-1, pp.77-79.
しっかし、うちの大学の契約データベースのどこにもCritical Inquiry(の古いの)が入ってやがらねえってのは、どういうこったよ。
さて、今後の課題としては、
- PoL関係の訳、2発
- Lewis, D. & S.の"Holes"を参照しながら、西村清和の擬装主張説批判に反論する。
- しかも、「他に成功しそうな仮説がないんならやっぱり
make-believeとしての虚構実在論をとらざるをえないよね?」と主張する。 - 作品は行為であることを、世界じゅうのみんなにしめしおしえる(Currieの"Work and Text"を批判している文献を探してみる)。
- あの夏、いちばん熱い紙……文学フリマ24が帰ってくる。
ってところか。もし2点めができたら、わりとめずらしい仕事ができたことになるだろう。
「虚構と現実とは区別するだろ、存在論的に考えて… - kugyoを埋葬する」で紹介した、穴やドラゴンや殴るふりをすることやを数えることに関する議論は、Lewis, D. & S.の"Holes"からヒントを得たものです。正確には『穴と境界―存在論的探究 (現代哲学への招待)』からの孫引きで、原典にはこれからあたるんですけどね。(穴に関する議論は「穴と境界とスイミーと - kugyoを埋葬する」で紹介しました)
で、西村の「〜のふりをする」に関する議論、「仮象論のパラドックス」の解消法を示した議論ですが、まず西村の言う「仮象論のパラドックス」ってなにかというと、ある再現描写行為(「殴るふりをする」)は
- ある意味で、現実世界でふつうに行われる行為(「殴る」)と同じである。つまり、リアルである。
- 別の意味では、現実世界でふつうに行われる行為(「殴る」)とは違う。つまり、ふりである。
という2とおりに捉えられざるをえなくて、矛盾だ! というものですね(『現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)』p.92, 『フィクションの美学』p.34など参照)。
ここで西村は、最初のほうの角を放棄し、「殴るふりをする」はいかなる意味でも「殴る」に似ていない、独自の行為なのだ、と言って、パラドクスを排除する。まあ似ているとすれば、それは「アヒル口をする」と「キスをする」とが似ているぐらいの似かただ、というわけなんでしょう。じゃあ再現描写行為はなにをしていることなのかというと、
- 虚構世界で行われる行為を指示している。
というわけですね。
ということで西村は、「仮象論のパラドックス」を排除するために、現実世界とは異なる虚構世界の存在を受け入れているわけで、その点では私と西村とは対立しません。しかしそうなると、西村による「〜のふりをする」の分析を受け入れない場合、「〜のふりをする」をどう受け入れるのかが問題になります。
んー、やはり西村の分析を受けいれたほうがいいのかな。もう少し考えてみよう。
私の考えでは、“虚構文にはなぜ虚構世界を指示する力が備わっているのか”という問いの立てかたじたいがそもそもおかしくて、“虚構世界(=他の可能世界)を指示してしまった文を、虚構文と呼ぶ”と言うのが正しい。もちろん、他の可能世界を指示する、なんてことができるかどうかは、三浦俊彦の指摘どおり慎重な検討が必要。三浦は“してしまう”ならいいんじゃね? と考えていたような気がする。
で、この考えかたに基づくと、“我々はふつう、現実世界のものごとを指示するために文を使う”のだが、それに(わざとでもいいが)失敗することがありえて、そのときには“虚構世界を指示してしまった”ことになる、とすることができるはずだ。これなら、「殴るふりをする」が「殴る」に似ていることや、「〜のふりをする」なる言葉でさまざまな行為がひとまとめにされていることがよく理解できると思う。