虚構と現実とは区別するだろ、存在論的に考えて…
虚構的指示対象がなんらかの意味で実在することを認めないでもやっていけると……うふー……それって、穴の実在を認めないでやっていけるとする立場同様の批判を、与えられうるのではないかな。
つまり、ドラゴンの実在を認めない立場から、
- ドラゴンが眠っている。
なる文が省略しているもんを適当に分解して、「ドラゴン」などという語を使わずに記述できたとして(分解が面倒なので{ドラゴンが眠っている}と書くよ)、
- 2匹のドラゴンが眠っている。
はそれとはまた別の記述のしかたをしなくてはならないのは自明だろう。つまり、
- {2匹のドラゴンが眠っている}
だ。さて、我々は「ドラゴン」を実在として認めていないのだから、「1匹のドラゴン」「2匹のドラゴン」「30匹のドラゴン」などを、数の概念に訴えて分解することはできないはずだ。ということは、
- {2匹のドラゴンが眠っている}
は
- 2{ドラゴンが眠っている}
のようには書き直せず、まったく異なる文として理解されなくてはならない。これは
- {101匹のドラゴンが眠っている}
の場合でも同様だ。つまり、ドラゴンの実在を認めない我々は、ドラゴンに関する文を無限に習得し、しかも{100匹のドラゴンが眠っている}と{101匹のドラゴンが眠っている}とを、数をかぞえることなしに分けて考えなくてはならないことになる(すさまじい想像力だ! ゲーマの鑑!)。
(あ、たとえばここで「ドラゴンるdragone」などの動詞を持ち込めば、虚構的名辞についてはなんとかなるかもしれない。{2匹のドラゴン}は「2回ドラゴンる」のように書けるだろうか? それでなにが解決するんだっけね?)
ふーん、さて、「殴るふりをする」は「殴る」とは異なる意味と実質とを持っている、という西村清和の議論は、それではなぜそういう種類の行為が「〜ふりをする」というしかたで一様に記述されるのかが気になるので、なんとか論駁しようと考えているのだが(「高階のふりをする - kugyoを埋葬する」はその失敗ヴァージョン)、これもさっき検討した路線でいけるのではないかな。ちなみに、私が「殴るふりをする」にまつわる問題を解消しうると考えている方針は簡潔で、
- この可能世界(=現実世界)でない他の可能世界の住人を指示してしまっているものが、虚構である。
というもの。これだと虚構とウソとは分けられるが、反事実的条件文は虚構に含めないといけない。ま、でもそのぐらいいいんじゃないの? あれってプチ虚構じゃない? と思っている。
ちなみに、西村は芸術作品の有用性説を批判するときも似たような話をして、美的経験とそのあとに続く(有用な真理の)経験とを分けろ、というのだけど、その分けられるような美的経験とやらがなんだかわからねえからみんな困って有用性説(認知主義cognitivism)に手を出すわけなので、彼の議論はあまりうまくいってない。そこで登場するのがJerome Stolnitzの"On the Cognitive Triviality of Art"であり、こっちでは、そもそも認知主義の言っているような有用な真理の経験など、芸術作品は与えられないよ! と言っている。このほうが筋はよいだろう。
/ ̄ ̄\ / _ノ \ | ( ●)(●) . | (__人__) 芸術作品なんて | ` ⌒´ノ どうでもいいだろ、認知的に考えて… . | } . ヽ } ヽ ノ \ / く \ \ | \ \ \ | |ヽ、二⌒)、 \
ってわけだ。なお、Stolnitzはついでに「芸術作品なんてどうでもいいだろ、歴史的に考えて……」という論考もしているらしく、そっちは批判されている。