あなたのkugyoを埋葬する

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 以下は、9月3日にミクシィに書いた文章を転載し、少し改善したものです。
 
 真理論は快感原則によって優先されてしまうのではないか? という話が、以前、部室で出ていたけれども、これははっきり、そんなことはありません、と言える。
 快感(興奮)を外からの刺激によって得ようとすれば、外界で起きている事柄を認知する必要がある。また、快感原則に従って行動する場合、「こうすれば快感を得られるはずだ」というように推論をして行動することになる。すると、快感原則を上位目的とする人間にとっても、正しい認知とは? とか、正しい推論とは? といった形で、真理とはなにかを空虚にでなく問える(部室でもこういうことを少しだけ考え付いていたので、少しだけ言った)。
 言い方を変えてみよう。真理を追究することは、快感を得ることをその上位目的とする、ということは認めてもよい。言い換えれば、真理に内在的価値はないが快感にはある、という立場は、認めてもよい。しかしそこから、真理を追究しなくてもよいということにはならない。むしろ、真理を追究することは、快感を得るという上位目的を達成しやすくする。
 真理論には詳しくないのだが、真理の実用説だか有用説だか有用性説だか結果説だか(と、それへの反応)が、このへんをもっとよくフォローしているに違いない。


 と書いたところで、発端の話が問題視していたのは別のところではないか? という気がしてきた。
 快感原則に従う、というのは、行動の話である。それに対し、真理論が扱う(真偽が問える)のは、文についてである(ちゃんと考えると文といっては不十分だとわかるらしいけど)。
 事実について述べた文(平叙文)は、「このように行動すべき」と言うことはできない(と、いうのが常識である)。「真理はこうだ」とは述べても、「真理はこうだ。だから、このようにすべきだ」とは、平叙文は述べない。
 とすると、発端の問題は、平叙文(と、その真偽とは何かについて追究する真理論)からかってに規範を読み取って、それと快感原則を戦わせていた、いわば擬似問題だったのだろうか?
 いや、そんなことはない、と解釈できそうだ。発端の問題を私なりに整理するとこうなる。
「真である、から規範が出てこないなら、われわれは真理とは無関係に、そして快感原則という規範に従って、生きるべきである。では、規範を導くのに役立たないようなもの(真理)を論ずる必要はないのではないか? それがわかったところで、われわれは何かする『べき』だということにはならないのだから」


 これに対しての私の反論のプランは次のようになる。すなわち、「平叙文から規範は出てこない」ということ(常識)の否定に取り組んだ議論をひいてくる。そのうえで、真理論からも規範は作れるよ、として、規範どうしという同じ土俵に乗せたうえで、どちらの規範を優先させるのがよいかは簡単には決められないぞ、とする。真理論が不要でないことを示すには、そこまで持っていけばじゅうぶんである。


 ところで、「規範を導かないようなもの」は真理論だけではない。たとえば科学理論はみんなそうだ。しかし、科学理論は事実について述べているといえるので、それを快感を追求する手がかりにすることができるけれども、真理論のように概念について述べる論については、それを手がかりに快感を追求することは難しそうである。だから、快感原則優先論者に対して、「科学も不要だというのか?」と言っても、反論することはできない。
 ……と、書いたのだけども、この段落はおかしい。だって、真理を追究することは、快感を得るという上位目的を達成しやすくする、と上で書いているのだから、これはそれと矛盾している。というわけで、正しくは、「科学は快感追求の手がかりにできるけど……」という、この快感原則論者の意見に対して、真理を追究することも快感追求の手がかりにできる、と応答しなければならない。
 そうなると問題がよく見えてきて、つまり、快感原則論者の真理論に対する批判とは、「真理を追究することが、快感追求の妨げになるとしたら、快感を優先すべきではないか?」ということだったわけだ。
 ここで真理論を擁護する道は2つある。
 ひとつは、「その場合でも真理を優先すべきだ、という立場もありえる」として、規範を真理に求める立場と快感に求める立場とのあいだの優先関係は、快感原則論者が言うように簡単に決められるものではない、とするもの。これを強めると、「いかなる立場でも、真理を優先すべきだ」となる。
 もうひとつは、「真理を追究することが、快感追求の妨げになることはない」とするもので、こちらの場合、真理の実用説をとることになりそうであるが、他の論じ方があるかもしれない。


 次回は、「人を殺してはいけない」という命題を、背理法で証明しながら、上のプランを実行するつもりだった。しかしどうもそれでは、うまく平叙文から規範を取り出したことにならない気がしているし、上記の1つめの整理と2つめの整理がほんとうに重なるのか? という疑問もある。
 つまり、1つめの整理では、問いを「真理は規範を導かない、とすれば、我々はほかの規範、つまり快感原則に従っているのだし、規範を導くのに役立たないものを論じる必要はないのではないか?」というようにした。これは前提を否定すれば反駁できる。
 いっぽう2つめの整理では、問いを「真理を追究することが、快感追求の妨げになるとしたら、快感を優先すべきだろう?」というようにした。これは、1つめの整理の前提の否定がなされたうえでの問いになっている。これに対して、私のプランで答えるとすれば、それは「2つの規範のうちどちらを採用すべきか」を論ずる、メタ規範の話になるはずだ。


 いかん、哲学のうちでも倫理学については触れずにいこうと思っていたのだが……。なにせ、論理学や心の哲学をいったん休止して、可能世界論と美学とオントロジー工学とに取り組んでみようと思っていた矢先だったのだ。とりあえず、いまの私にできる範囲でやってみてから確認しよう。いまのところ、「メタ規範の話をしなきゃいけないよね?」と言って、言い換えれば「簡単には決められないよね?」と言って、そこで終わりになる予定。