あなたのkugyoを埋葬する

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"汎用サーチライト"その2

 報酬が支払われたため、今日からまたコーヒーで加速することができるようになりました。


 "汎用サーチライト 第二号"、目次はこうです。

  • 長田祥一「継続的な、変化と過去の、欠落……『BLACK LAGOON』」
  • 横田智史「来らざる炎 ―映像アーカイブのための(非)方法序説―」
  • 原友昭『水脈』
  • 小松祐美「志向性の渦巻く場所 〜『xxxHOLiC』〜」

 『水脈』のみ韻文、他は論文です。タイトルと副題とのつなぎかたが三者三様でおもしろい。こういうのってルールあるんだっけ?


 「継続的な、変化と過去の、欠落」は、アニメ『BLACK LAGOON』の表情の変化が、カットとカットとで断絶した形でしか現れないことを指摘したもの。『BLACK LAGOON』は登場人物たちの「陰惨な表情」でつとに知られた作品だが、「平常の表情」からの変化の瞬間というものはが画面に現れない、これのおかげで我々は(切り替えができるから)安心して見られるんじゃない? という評論。よい発見だ。漫画の原作と比較してくれたらどうなるだろう? と思ったが、漫画ではそもそも表情の変化の瞬間というものは非常に描きにくく(でも描けるけどね)、扱いに困ったのかもしれない。
 「アニメという映像における表情の変化は、他メディアで起こるそれや現実に起こるそれとは違う」ということをちゃんと示している。すごいです。


 「来らざる炎」、こういう文章を最近読んでいなかったのでちょっと苦労する。マーカでところどころチェックしながら読みました。文献アーカイブの受容についての既存の語りを、映像アーカイブにも適用できるか? という論点を、フーコーの「図書館は火につつまれている」を主軸に、デリダ、パオロ・ケルキ・ウザイ、メアリー・アン・ドーンなどの思想家を引きながら考えていく。映像は指標記号の結びつきの確かさを約束してくれないから、文字媒体由来のディスクールに我々が結びつけている厳正さや洗練とは遠い、したがって「映像アーカイブフーコーの語っていたような火の地帯となることも永遠にないように思われる」と結論している。
 問いを立てたらいったん解決してから次へ進んでほしいと思わなくもないが、これはまあ最後までちゃんとマーカ使いながら読めばなんとかなったんだから、これでいいのだろう。論じたいについては、たとえば映画の長回しのシーンでは「そこにいかような意味内容の指標記号をも付与しうるという意味での偶然性が機能している」と(ドーンを引いて)論じられているのだが、それって文字媒体由来のディスクールでも同様じゃないの? という疑問がある。あるいは、映像について、そこまで偶然性って機能しているか? という疑問(これはシーモア・チャトマンが『小説と映画の修辞学 (叢書 記号学的実践)』でとっていた立場のはず)。
 しかし文献の読み込みがすごいね、未訳ものがほいほい出てくる、在野のひとなのだろうか? かっこいいなー。


 『水脈』は内容的には明治や大正のころにふつうにあった詩と変わらない。タイトルと著者名をも韻文形式に盛り込んでいるところはわりと工夫ポイントなのだろうか、この雑誌ぜんたいの意志表明としてとりあえず読む。


 「志向性の渦巻く場所」は、うーん、別に"性"つけないで"志向"でいいんじゃねえの、と思って、敬遠ぎみに読みはじめた(若い老人式表現だなコレ)のだが、どうしてどうして、漫画を論じるってのはこうでなくっちゃ、というよい評論。
 『xxxHOLiC』のコマの特徴(コマはいつでも長方形、余白の太さが縦も横もいっしょ)を発見し、それに不自然でない意味づけを行う手つきは圧巻とはいわずともベリーナイス。白と黒との明確なコントラストのなかでグレーの代わりに使われる細い線の群れが我々の視線を自在にコントロールしていること、定型化されたエピソードの反復がコマ内の時間感覚と呼応していること、といった、記号レベルでの「閉じようとする志向性」を列挙したあとで、それを崩そうとするストーリーレベルでの『ツバサ』の唐突な混じりこみを論じていく。
 これは、注で扱われているようなエピソードについての解析をうまくつなげることができたら、決定版の『xxxHOLiC』論になるに違いない。すごいね。ノベライズ(『×××HOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』)した西尾維新さんよりもきっとこれは深く読み込んでいるよ。


 あー、いい本買ったなあ。まだ第三号もあるんですね、いまから楽しみ。あと数十分後には読むけど。
 お昼ごはんを食べ終わったので、ちょっと論理学の勉強をします。でも文フリ24はまだまだ続くんだぜー。