あなたのkugyoを埋葬する

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べとべとさんが手を、握っているような気がしてならない

 (以前読んだ)『意識の哲学―クオリア序説 (双書現代の哲学)』において言われていたことへの理解が、『シリーズ心の哲学〈1〉人間篇』を読んだところ、前進したように思う。特に第3章、鈴木貴之「クオリアと意識のハードプロブレム」のおかげで。


 ところで、「手が熱い」と「手が痛い」との違いを考えていて、「手がべとべとする」だったら「手が熱い」側に入るのではないか、と考えついた。
 なにかべとべとしたものに触れて、「手がべとべとする」と感じたとすると、そのときにはその手に触れてみても、やはりその手がべとべとする。粘土(油ねんどとか紙ねんどじゃなくてね)に触れたときのことを考えてみてほしい。なお、弱い粘着テープのようなものに触れた場合には、「粘着テープがべとべとする」という言い方はするが、そのときに「手がべとべとする」とは言わないだろう。なぜなら、こちらの場合には、その手に触れてみてもその手はべとべとしていないからである。手を粘着テープから離してしまえば、その手の持ち主にとっても、その手にあとから触れる他人(当人であってもよい)にとっても、その手はべとべとしていないのである。
 さて、こういう伝播は、「手が熱い」にも同じように言えるのではないか。つまり、熱いもの、たとえば湯に触れたとき、だれが触れた場合でも「湯が熱い」と感じるだろうが、それと同時に触った者は自らの「手が熱い」とも感じるだろう。このとき、触ったその手をまたべつのだれかが触っても、おそらく「その手が熱い」と感じられる。つまり、客観的に手が熱くなっている。「手が熱い」はこうした2通りの意味で正しい。
 それでは「手が痛い」の場合はどうか。まず、痛いもの、というのがなんなのかよくわからない*1。とりあえず、湯の例にならって「だれが触ってみても痛いと感じるもの」を考えてみると、たとえばウニなどが例になるだろうか。しかし、ウニを触った手にべつのだれかが触れても、そこでは「べとべとする」や「熱い」のような伝播が起こらない。これは「わき腹がくすぐったい」などの場合でも同様だ。
 まとめると、「だれが触ってみても熱いと感じるもの」を触った手は、「だれが触ってみても熱いと感じるもの」になるが、しかし、「だれが触ってみても痛いと感じるもの」を触った手は、「だれが触ってみても痛いと感じるもの」にはならないのである。


 もちろん、以上の話は、かなりマクロ的な見方であって、ミクロ的に見ると、「手が痛い」と感じるときそこには化学物質や電気的シグナルがあって、これはおそらく他人にも伝播させることができる。しかしその点については「べとべとする」や「熱い」も同様であるから、われわれは「手が痛い」を、やはり「手が熱い」とは異なる点を持った言い方として扱うほうがよい。

*1:この点、「あいつは痛いやつだ」なる言い方は注目に値する。ら抜き言葉同様、日本語の合理化の一方向なのかもしれない。