あなたのkugyoを埋葬する

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世界相手のTit-For-Tat

ボストン大学の卒業証書を見せながら自分はレバノン人だと言えば、かれらはすぐにそれは偽造文書だと思うんですよ……これって誰のせいでしょうか? どう考えてもオーストラリア人のせいではないわね。結局、かれらの見方は経験から培われてきたわけでしょう……
(ガッサン・ハージ『ホワイト・ネイション-ネオ・ナショナリズム批判』p.120)

 『ホワイト・ネイション』の読みやすさにびっくりしている(訳注が本文横にあるのはえらい)のだけど、ひとつ注文をつけたいのは、引用したようなインタビュー部分の訳しかただ。語り手によってこんなに口調を変えていいのだろうか、この本の趣旨からして。


 それはそれとして、上記の「かれら」=「オーストラリア人」の「見方」だけど、これ、じつは合理的じゃないのでは? と最近思う。オーストラリア人がレバノン人相手にとる態度の決定を、繰り返し囚人のジレンマのモデルでとらえられるとすれば、上記の戦略は「数回裏切られたらあとはずっと裏切る」になるだろう。しかしそうだとすると、TFT以外にも諸条件によってよい戦略は変わるにせよ、基本的には相手にあわせる系統の戦略が強いはずである。上記のような戦略が強いような環境はなかなか思いつかない。
 だからオーストラリア人のとるべき戦略は、“よい”レバノン人に出会ったら、そいつを例外であると考えて次はまた裏切るのではなく、次に会うレバノン人は(いままでのほとんどのレバノン人とは異なって)“よい”であろう、と考える、というものだ。1匹でも黒いスワンが見つかったら、少なくとも「すべてのスワンは白い」は反証されるけれども、それだけでなく「次のスワンは黒い」と考えてしまう、ということだ。


 ところで、オーストラリア人とレバノン人とのゲームと言ったけれども、これは「レバノン人」というプレイヤが個々のレバノン人という手を出してくる、それに対してあるオーストラリア人がどう出るか、というゲームだと考えてほしい。これを拡張すると、さまざまな手を出してくる世界というプレイヤに対応するわたし、という感じで、記事タイトルにしたようなセカイ系的な話になる。