あなたのkugyoを埋葬する

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ありがとうございました(概念の更新について少しだけ)

optical_frogさんへの再々応答:虚構かそうでないかを決めるには - kugyoを埋葬する
 上の記事について、id:optical_frogさんからお返事をいただいています:
ひとまず最後のお返事として - left over junk
 7月ちゅうにはなんとかお返事をしようと思っていたのですが、こちらの事情でずれこんでしまいました。ブログの記事なんてボトルメールのようなもので、時間的隔たりなど関係ない、という立場もあるかと思いますが、いままでの議論を追いかけてくださった方々のためにも、ひとことお詫び申しあげたいと思います。
 なお、optical_frogさん同様、私もこの記事でひとまず応酬は区切りとしてよいかな、と思っています。これから述べる内容は、ひとつは“芸術作品”という概念の更新に関する(私にとって)未解決の問題についてですし、もうひとつは無限後退にまつわる私のアイデアを放棄するものだからです。
 

芸術作品とは何か

 コンパニョンの主張(バージョン4)を再掲します:

バージョン4:実際的な必然性として、テクストの理解において参照されなくてはならない資料(実際の作者の意図に関わる資料)が存在する。

 さて、この前提から矛盾を導ければ、コンパニョンの主張に論駁できるでしょうが、私はそれは困難だと思っています。また、反例を示すのも難しいでしょう。というのは、たいていの反例に対して、コンパニョンはそれを「実際的な必然性」にそぐわない例として棄却できるだろうからです。それは私の出した思考実験についてもそうです。というわけで、とりあえず、反例を提出してコンパニョンに論駁を試みる方針はあきらめます。
 私が現在、コンパニョンの上記の主張を論駁できると見込んでいる方針は、上記の「実際的な必然性」を攻撃するものです。これまでの議論では、テクスト理解についての実際的な必然性は、ただひととおりに決まる(テクスト理解ということが、ただ1種類しかない)という前提があったと思います。しかし、テクスト論者の立場からは、「作者の意図を考慮せずにテクストを解釈できる」ということに積極的に意味を持たせて、テクスト理解を次の2種類に分類することができます:

  • そのテクストを、コミュニケーション(の一部)として受け取る場合
  • そのテクストを、芸術作品として受け取る場合

つまり、ある資料を「実際の作者の意図に関わる資料」として参照しているような受容は、それを芸術作品として受容しているのではなく、実際の作者と受け手とのコミュニケーション(の一部)として受容しているのだ、というわけです。意図がじっさいに考慮されているというコンパニョンの主張は、文学作品についての主張ではなかったのだ、というこの立場をとれば、コンパニョンの主張を文学作品について無効化できます。前回の私のまとめに追記するならば、次のようになるでしょう:

「実用論的汎反意図主義」
(a)意図の帰属はつねに虚構であり,かつ,(b)恣意的(べつに虚構の語り手に帰属させてもいい);(c)ただ,実際には「プラグマティックな原因」により(特定の)人間に帰属させていることが多い.
(d)したがって、「プラグマティックな原因」が特に見当たらない場合、どんな表象でも自由に解釈してよい。
(e)ところで、作者の意図を考慮せずに表象を解釈した場合、そしてそのときのみ、私たちはその表象を芸術作品として受容していることになる。(考慮した場合、コミュニケーションの一部として受容していることになる。)

 ただ、この立場は、芸術作品はコミュニケーションではありえないと言っているわけですから、“芸術作品”という概念の書き換えを要求すると思います。とすれば、この立場をとるか、コンパニョンの立場をとるかは、どちらの立場が“芸術作品”という言葉の使われかたをよりうまく(現実の適用に沿って、また、整合的に)説明できるか、にかかってきます。
 念のため注記しておくと、このテクスト論者の立場は、ある物理的対象が芸術作品として受容されることもあればコミュニケーションとして受容されることもある、ということは認めます。ただし、ある物理的対象を芸術作品として受容したならば、そのときはそれをコミュニケーションとして受容することはいったん断念されているのだ、と考えているわけです。
 また、上記の立場は、時間的に大きな隔たりがあり、かつ一方的なコミュニケーションの存在を認めていますが、これについては特に問題があるとは思いません。たとえばスパイに送られてくるレコードに収録された指令(自動的に消滅するアレ)は、非常に限定されたものではありますが、比喩的にでなくコミュニケーションであると言えるでしょう。

無限後退について

 無限後退について、optical_frogさんは

無限後退の難点を避けるとすれば,「汎反意図主義」はつねに意図を考慮しない方を選ぶことになります.

と述べていらっしゃいますが、これは違います。私の挙げた例、

虚構のテクストであると受け取ると作者以外のだれかに殴られて痛い思いをしそうなのであれば、汎反意図主義者はテクストを真に受けようとするでしょう。

を考えれば、この場合では、あるテクストを現実/虚構のいずれとして受け取るか決めるときに、1階の発話状況では、テクストを真に受ける、つまり作者の「(A) 意図を考慮する」選択がなされていますが、なぜそうすることにしたかといえば、2階の発話状況において、その選択をすることが利益をもたらす((B) 意図を考慮しない→実用論的理由(利害)を考慮する)からです。まとめると:

  • 1階の発話状況(テクストが提示されたという状況):(A) 意図を考慮する
  • 2階の発話状況(真に受けないと損害、という状況):(B) 意図を考慮しない→実用論的理由(利害)を考慮する

 というわけで、「汎反意図主義」は意図を考慮することにした場合でも、後退をここで打ち切ることができるはずです(もう少しさかのぼることができるかもしれませんが)。
 ただ、このようにして階梯を登った場合、optical_frogさんの対案をとろうと「汎反意図主義」をとろうと、階梯を登りきることができてしまう気がします。すべての社会的状況を考慮に入れ終わったら、あとはもう考慮すべき発話状況がなくなってしまうと考えられるからです。その点で、この無限後退のアイデアは、うまくいかないかもしれません。ですから、私としてはとりあえず、このアイデアは放棄することにします。

むすび

 現状の言葉の使われかたをだけ見るのであれば、「芸術作品を通じて作者とコミュニケーションする」などとふつうに言われている以上、上記のような立場には分がありません。しかし、そもそも“芸術作品”とか“作者の意図”とかいった概念を分析し、私たちの手持ちの概念を更新しようという場合には、分析結果が現状の言語使用の事実の理解として正しいかどうかは、判断基準の1つでしかありません(ほかにも整合性などの基準がある)。そういう意味で、私のいままでの議論は「べき」論である部分が多かったかもしれませんが、より整合性の高い概念を使用する「べき」だという基準は、かなり普遍的なものだと思います。


 opitcal_frogさんには、私のはじめの立論に興味を示していただいたこと、またその後も継続的に私の記事に返答をくださったこと、感謝いたします。議論を通じて、いくつかの文献の知識も増え、非常に勉強になりました。
 私の記事は、あらためて頭から順にたどりなおしてみると、記事間で論旨がずれているところもあるようですし、多少くどい部分もあったと思います。optical_frogさん、またこの記事をご覧の皆さんにも、お詫びしたいと思います。
 ともあれ、私がいま持っている分析は、この記事でひとまずうちどめかと思います。いままでありがとうございました。今後は、“芸術作品”という概念の更新について考えていくつもりです(年末に、これに関連したテーマで研究者のかたに講演を依頼すべく、いまサークルで準備中です)。


 なお、いままでの議論の流れについて、id:sakstyleさんがはてなブックマーク上でうまくまとめてくださっています。記事群を概観したいかたは、そちらをご覧になるのがよいかもしれません。
はてなブックマーク - 反意図主義に関するsakstyleのブックマーク
(ただ、これはもちろんsakstyleさんの個人的なメモなのでしょうから、sakstyleさんが削除なさる場合もあるとは思います。)