あなたのkugyoを埋葬する

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「lapis vol.1」

第8回 文学フリマで買った同人本の紹介です。

  • E-09 lapis(ラピス):「lapis vol.1」(\200)


 これは手に取ったとき、p.23の左上、「堂々巡り」の中のこの記述が目に入ったので買ったんでした。購入時にp.22にしおりを挟んでくださったので覚えていられました。

「うちの犬が馬鹿すぎて、大変だったんです。血統書とか保険証とか、まあうちの大事な書類を諸々食ったんです。頭に来たから思いっきりひっぱたいてやりました」
「それで?」

 こういう変な文を見かけると、期待して買いたくなってしまう。犬は書類を食わないだろう(かじることはあっても)と思うが、ひょっとしたらそういうこともあるかもしれない、というように読者を強引に納得させる小説であるのなら、それはそれだけでよい小説だと思ったので、そういう期待をこめて購入。
 あと、脚本が入っていたのも買う理由になりましたね。読めるものを書くぶんには脚本はそう難しくはない(わざとらしい台詞でも押し通せるからね)のですが、上演できるものを書くのは非常に難しいです。


 代表の木内真美子さんによる「ごあいさつ」によれば、各編、「ラストが青空」がテーマだそう。「各作品のラストシーン(詩集は最後の一編の後半)に青空の描写を入れる」そうな。
 収録作品は以下。

  • 木内真美子「ゆらぎ」
  • 中桐壮太「透明な丸」
  • 鈴木夏唯「堂々巡り」
  • 森悠也「<脚本>一人十色?」
  • 矢尾山花名「染められて 染み入って」
  • 矢尾山花名「<詩集>冬色の服」
  • 十六夜サクラ「鷹の飛んだ日」

 ほかに、「特別連載:Project RS <プロジェクト・アールス>」と銘打ったのがあって、

  • PANDRA
  • ROUTE XXX <ルート・エターナリィ>第1話

Produced by 天城巫琴
 だそうです。
 個々の作品にQRコードがついていて、読み取るとメールが送れるようになっています。せっかくなので私もアンケートページのQRコードを利用しました。

「ゆらぎ」

 正月に帰郷した「俺」が、結婚した高校時代の同級生「智」と「美貴」とからの年賀状を受け取り、「美貴」の思い出にひたったあと、「美貴」に電話をかけるおはなしです。
 「ラストが青空」という縛りをどう処理しているのかな、と思って見ていくと、終わりはこうです。

 歩きながら上を見上げると、一筋の飛行機雲が空を横切っていた。それ以外の雲はほとんどない。空は憎たらしいほど澄んでいる。
「……いい天気だな」
 俺は持っていたタバコを吸い、空に向かって煙を吐き出した。空の碧と飛行機雲の白が、細い紫煙と溶け合った。

 「碧」「紫煙」だなんて気取ってますが、この「タバコ」、「美貴」に結婚を祝う電話をかけたストレスで吸っているわけです。「俺」が「タバコを吸い始めたのは就職してからだ。仕事のストレスが増えるたびに、本数も増えていった」そうですし、そもそもこの電話って、冒頭で「俺」が「父」に「できてない」と叱られる、「報告、連絡、相談」ですよね。
 父親に「人付き合いの基本」と諭される「『報連相』」に苦しめられながら、「俺」はこの物語を終えます。さらに言ってみれば、この物語じたいが、語り手による「報告、連絡、相談」ともなっているわけで、「俺」がこうして語っている物語そのものが、紫煙の「ゆらぎ」の向こうからやってくるものなのです。

「透明な丸」

 「僕」が自殺するためにのぼったビルの屋上で、「男」と「娘」とが心中するおはなしです。
 ノベルゲームという媒体が登場し、紙同様のインターフェースもできあがりつつある現状では、小説という原始的な形態をとる意義がますます薄れつつありますが*1、そのなかでも少し小説に残された独自のものがあるとすれば、見開きのごちゃっとした感じ、なんかがそうでしょうか。ノベルゲームだと、たいていは立ち絵がよく見えるように、1つの会話は1つのボックスに収められているし、地の文も見やすいように区切られている。回想モードだと少しは広いけれども、そのかわり会話には色がついていることがありますね。
 何が言いたいのかというと、この小説は、カギカッコの有無で分けられている、会話と地の文との区別をなくして読めるのではないか、ということです。たとえばこんな箇所。

「……個人の財産に興味のない人間が、ひいては自分の命に興味のない人間が、無意味ないとなみが世界じゅうで繰り返されていくうちに増えていくのは当然だった。ウイルスのように蔓延している、そんな病魔」
「そう、ですね」
 彼が言っているのはあきらかに正しいことだったけれど、そんな冷静な解説が欲しいわけじゃなかった。僕は多分、楽になりたかっただけなのだ。その無意味な世界で、あるいは別の場所で、休むことのできる方法が。男が僕の気持ちを理解してくれているんじゃないかという淡い期待があっただけに、僕は少なからず失望してしまうのを感じた。一度翳りだすとどんどん色を失ってしまう、今の空に似ていた。
「僕にはそれを考えている暇がなかった。ただ、まっすぐ前を向いていたらここまで来てしまったようだった。僕がここで死のうとしていることと、きみが悩んで今死のうとしていることには優劣はないし、僕にはきみを止めることなどできない」

 登場人物の年の差(「僕はまだ高校生」です)にもかかわらず一人称が一致していることからわかるように、自殺しようとする「僕」と「彼」とは重なるように描かれていますから、これは他者との会話ではなくて、内語として見てしまうことができます。小説作品においては、内語が描写や会話を侵食してしまえるのですが、これは映像を含んだ作品では非常に起こりにくくなります(マンガだとけっこう試みられていますが)。
 さて、もし「僕」と「彼」とを重ねて見てしまうなら、「男」が心中したあとの「僕」の内語は、どういうことになるでしょうか。

 僕は、死ねるのか?
 男が死んで、娘を助けられなかったいま、僕は下の騒がしい社会へ向かって死んでいけるのか?


 そのとき、僕の頭上は、赤と翳りが調和した青い空だった。
 世界の終わりのような、青い空だった。

 最後まで引用してしまいましたが、ここで「そのとき」の直前に1行あきがあることからしても、「僕」はけっきょく死ぬことにしたのでしょう。我々読み手は、内語の主を「僕」だと思って、つまり、「男」が「僕」に同化したと思って読むこともできますが、この私の第8回文学フリマ関連の書評の隠れた主題であるところの、語り手の物語統括力の掘り崩し*2、という観点からすれば、「僕」のこの厭世的な内語こそ、心中しようとする親子や「青い空」やといった、“それっぽい”情景に誘発されたものだと見ることもできましょう。
 タイトルの「透明な丸」は、「娘」が腰の袋からこぼす「ビー玉」(これもまた“それっぽい”ですねえ)のことを指すと同時に、会話文の最後に、カギカッコの隙間に挟み込まれているもの、会話と内語とが融合するまでは目に見えない丸、すなわち句点をも指しています。

「堂々巡り」

 「僕」がバレンタインデイに、バイト仲間の「コバヤシくん」をあしらいながら、「ゆきさん」「サツキさん」「ケイ」を映画に誘うおはなしです。
 「僕」はどうも恋人を作ろうと焦っているようすです。

 そんなことはどうでも良い。だがしかし、ここのところ彼女ができない。彼女ができないと、なんだか負けている気がする。

 この「僕」の価値基準は全編ににじみでています。「コバヤシくん」にかける言葉は『彼女いないもんね』だし、「古着屋でフリーターのゆきさん、年上。何故か坊主頭。」については「どうやって知り合ったのか覚えてない」(のに映画に誘う)し、「サツキさん」には「バレンタインデイ」にかこつけて

僕は密かに、何かをくれるのではないかと、期待していたので、「おつかれさま」を気安くは言い難かった。

という態度をとるし、「犬の散歩でもすれば何処ぞの箱入り娘と遇うかもしれないと思って」散歩するし、見に行こうとする映画は「カップルがこぞって見に行くであろう話題作」だし、「コバヤシくん」に映画に誘われれば

どうしようかこれ。僕が男色もいけるクチだったらそれはそれで良いのだけれど、残念ながらそれは出来ない。僕は彼女が欲しいのだよ、好意が欲しいのだよ、そういう意味で、寂しいのだよ。

と考えるしで、とかくなんでも恋愛に結び付けようとします。作中で「僕」は、村上龍の小説『限りなく透明に近いブルー』を、「村上龍がいろんな女とか男とかとやった話」と要約しますが、その伝でいけばこのおはなしは、「僕」がいろんな女とか男とかとやるかもしれない話、ということになるでしょうか。
 もちろん、この小説は『限りなく透明に近いブルー』ではないので、「僕」はやるところまでは進めません。

 店から出ると、空が白んでいた。

 家に帰ると、メールが届いていた。


久しぶりだね! メールありがとう。顔見たいなあって思っていたところだから、凄く嬉しい。今日あいてるから、映画見に行こうよ。


おはようございます。昨日はおつかれさまでした。少年メリケンサックは私も見たいと思ってたんです。今日なら一日中、明日は夕方以降ならあいてますよ。どっちがいいですか?


 どう返信したものか。答えが見つかりそうにないので、とりあえず眠る事にした。すっとぼけた青空が広がっている。

 ここでは時間の経過に明らかな詐術が働いているし、「ケイ」や「サツキさん」やに「僕」がメールしたのは携帯電話からなので、「家に帰ると、メールが届いていた。」というのも不自然です。送られてきたメールは、やりたいやりたいと思っている「僕」の願望を露骨に示しており(うまい具合に両者の、さらには「コバヤシくん」とのデートすらバッティングさせないですむ日付設定ですし)、物語における語りの全能性がよく出ています。
 ……しかし、そうした語りというのは常にだれかに向けて行われるわけで、ということは社会的規範にさらされることを意識しているはずです。だからこそ、じつはそうでないかもしれないにもかかわらず(前述の『限りなく透明に近いブルー』の翻訳や、「コバヤシくん」に対する「男の中の男らしく取り組むまさに侠気溢れる存在」だの「恰好の良い道」だのといった描写がそれを伺わせます)、自身はホモフォビアであると何度も繰り返し宣言せざるをえないのでしょう。

「一人十色?」

 冒頭のキャストの欄(「愛子」も1人5役)でネタ割れしていますが、「愛子」とのデートを明日に控えた「優」のもとに、「いろんな世界の俺」が4人集まってしまうおはなし。
 ちょっと技術的な話をすると、こういうネタを小説でやる場合、「優」以外の人物を登場させるのが非常に難しいです、そんなに描き分けられないから。つまり、おなじ「優」でありながら5通りの特色を持った人物として「優」を描こうとすると、他の人物にはもう割り当てるべき特色がなくなってしまうわけです、特に短篇の、それも脚本においては。
 じゃこういう物語をこういう形式で語ろうとするこの作品はどうなっているかというと、ハチャハチャを前面に出して一気に読めるようにするために、他の人物は登場させないうえ、なるべく多くのステレオタイプを使っています。ここに登場しているのは「オカマ」の「優」などではなく、セックスモンスタとして描かれた「オカマ」のステレオタイプそのものなので、そのカテゴリー違いが、動物園にキリンやゾウやと並んで“動物”がいるような感じでおもしろいです。

「染められて 染み入って」

 引っ越してきた家の近所で「僕」がお面を作って売る「おばさん」に会ってお面を買ってしまう話。
 面といえば、ぶんがく的にはふつう自分で構築してつけるものだと思いますが、ここでは「おばさん」の作った「夕日の顔」のお面を買わされて、「僕」が「おばさん」に同化していくさまが描かれています。
 はじめ、「僕」は「おばさん」を観察する立場にいようとします。

 袋を手渡しながら右頬を吊り上げた。恐らく笑ったのだろう。こういう偏った笑い方をする人は相当苦労してきた人なのだろうなと想像してしまう。

 おばさんは、対してする必要もないようなのにうつむいてビニール袋をがさがさといじっている。若い男と話すのは恥ずかしいのだろうかと邪推してみたりする。

 シツレイノキワミなわけですが、しかし、「おばさん」が「『裏にね、お面屋があるよ』」と言うあたりから、語り手の統括力がじょじょに侵食されていきます。

 まだ僕の顔を見ている。僕は恥ずかしげにうつむいてしまう。しかしお面屋とは。興味深い。

 さてお面屋に入った「僕」は、飾られたお面を「丁寧に見て」いきます。

 白い壁に白いお面が飾られていて、壁から顔が浮き出ているように見える。甚だ気味が悪い。笑う顔、泣く顔、しかめた顔、怒りの顔、いぶかしんでいるような顔、……。人間のさまざまな表情がある。鼻の大きい面、二重まぶたの面、頬の出っ張った面。性別や年代もばらばらだ。

 さてこの面の1つを目に止めていると、「おばさん」が「お面を壁から外」し、「僕の顔に押し付け」ます。これはけっこう衝撃的な描写です。こんなにはっきりと描かれていることはそうないですよね。「僕」はそのお面を買って帰宅したあと、自宅でまた「買ってきたお面を被ってみ」るのですが、そのとき見える光景は、

 日がゆっくりゆっくり沈んでゆく。
 まだ青い空に囲まれながらも段々と橙色になる太陽。

というものです。このお面は「二重まぶたの面」があるくらいには細かく造型されたものですから、わざわざ「お面を被」るということは、自分の視界を制限することになります。「夕日の表情」を示した面を被ることによって、目に映るものすべてが夕日化されます。「おばさん」によれば、

「夕日がどう見えるかがね、その人の心なんだよ。だからそれはおれの心の顔でもあるんだな」

というわけで、このとき夕日を見ている「僕」の表情=面は、「おばさん」の「心の顔」と化しています。「都会」から引っ越してきた「僕」は「こういった町ならではの」情景に溶け込んだわけです。

「冬色の服」

 詩集です。表題作のほか、「体温」「茨は泣かない」「幻影」「事象」「久遠の瞳」の6編を収録。
 私には詩は読めないのですが、ほとんどの詩にルビのある箇所があります。「盲」なんかに「めしい」とルビが振ってあるんですが、ということはこれは視覚的芸術として創作されたのではなくて、むしろ朗読用に作られているのでは、と思います。いっぺんルビを振った「轟き」に以降はルビが振られなかったりもしますし。すると、たとえば「事象」の読みづらい部分、

「点Oより事象Aの影響で発生したAベクトルが
 点Oに帰結するベクトルはマイナスAベクトルであり
 AベクトルイコールBベクトルプラスCベクトルなら
 マイナスAベクトルイコールマイナスBベクトルプラスマイナスCベクトル
 である」

なんかは、朗読されたものをそのまま書き取った感じに見えますね。
 朗読するための作品なら音声をそのまま作品として提示すればよいような気もしますが、こうしていったん譜面の形で我々に送られたからには、我々はこの作品を自分の声で読み上げるか、あるいは知り合いに読み上げてもらうことになります。そうすると、そこには読みではなく読み上げの多数性が生まれ、そのために複数の作品が生まれることになります(複数の作品の解釈そのものではなく)。つまり、この詩はまだ作品として未完成なので、私はここではこれより先批評することはできません。

「鷹の飛んだ日」

 「曹操」の軍師、「郭嘉」を焦点人物に据えた、「烏丸討伐」を描くおはなし。とは言いながら、焦点が途中でうっかり「賈詡」(かく)に移ったり、最後に

 建安十一年(西暦二○六年)
 烏丸討伐に勝利

とあったりと、語りが不安定な物語です。この不安定さが、時系列順に物語を進めない不安定さとあいまって、吐血する「郭嘉」の心境を描き出します。

「PANDRA」

 設定集。「地球に存在しない物質」って『DEATH NOTE』にも出てきたけど、どのような検査をしたらそれがそうであるとわかるのでしょうか。

「ROUTE XXX <ルート・エターナリィ>第1話」

 1行空き・2行あき・3行あき・5行あきが混在し、さらに改ページ・改段組も入り乱れる、魔性のつくり。それというのも、設定を提示し、警句を入れ、意味深な内語を入れ、と小説形式のある種の限界に挑んでしまっているためです。
 「To be Continued...」だそうなので、次回もお楽しみに。


 こちらが同人のサイトだそうです。
http://www1.atwiki.jp/lapis08web/

*1:現状がどうであるか、個々の作品がどうであるかはともかく、ノベルゲーム表現はマンガ表現より必ず優れているし、マンガ表現は小説表現より必ず優れています。だってノベルゲームはマンガを含むことができるし、マンガは小説を含むことができるからです。また、アニメ表現は実写表現より必ず優れています。アニメ表現は実写表現を含むことができるからです。一般に、自由度の高いものは、自由度の低いものを再現できます。

*2:ジュディス・バトラーの議論を下敷きにしているつもり。この書評が回を重ねるにつれ、「そのように自己表象する必要があるのでは」のような、もっと主体に重きを置いた議論ができるかもしれません。私は読み取り・すくい取りが苦手なので、強度ある語り手の登場に期待してます。