あなたのkugyoを埋葬する

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「MOJIの群レ」

第8回文学フリマ・入手物と感想(9評/55タイトル、追加中) - kugyoを埋葬する


第8回 文学フリマで買った同人本の紹介です。

  • A-03 ソベルテ・クァイユ:「MOJIの群レ」(\200)


 三糸ひかり(Miito Hikariとお読みするようですね)による小説。目次はありませんが、37ページからは高根ゆんによる「解説」がついています。

 十二オンスの液体を持ち運んでいるエニグマティッケは緊張していた。古都で古い友人から受け渡されたこの液体は、いったい何なのだろうか。それは知らない方が君のためだ、などと言われたら、あらぬ方向へ想像が向いてしまうのも致し方ないことではあろう。だが、健康によくない。目玉の中にいる赤ん坊をしっかりと産み出さなければならないのだから。

 冒頭の1パラグラフをまるごと抜粋しました。我々はタイトルを読んだ時点から、この小説は、よくある、まっとうではないような、そんな小説なのだな、と思ってかかることになりますが、はたしてその期待の地平(いやあ、こんな地平は広すぎてフェアでないかもしれませんね)は更新されません。
 1文め、聞き慣れない名前が登場しますが、ひとまずは我々もおとなしく読み従うことができます。それに小説の登場人物の名前なんてだいたい奇態なものです。ジャン・バルジャンwwwwなどと思っていればいい。あるいは、「エニグマティッケ」の前半部にだけ着目して、なぞだなあ、と思っていてもいいと思います。
 2文め、3文め、4文め、「エニグマティッケ」氏に共感することしきりです。12オンス、というとぴんと来ないひともいるかもしれませんが、だいたい350mlぐらいでしょうか、ちびっこペットボトルぐらいなもんですね。
 さて5文めでようやく、常識から外れたような文言が出てきます。「赤ん坊を」「産み出」すのはいいとして、その「赤ん坊」が「目玉の中にいる」、ここがよくわかりません。けれども、直前で「健康」に触れていることもあるし、「目玉」も肉体の一部ですから、そんなにむちゃくちゃな連想というわけでは、じつはないのでしょう。あるいは、「目玉の中にいる」というのは、視界に入っている、といういみだととれなくもありませんね。
 さて、ここで早くも五行空き(「◇」がはさまっています)があり、続くのはこんな文章です。

 これは足し算についての冷徹な考察をカリカチュラルに描いた作品である。本当は、微積分についての、である。もっとも、読むに際しては、オルメンクラッとその栄光、であっても何ら差し支えはない。ベクトルはあらぬ方向を指し示しており、行列は永遠に行列したままで、その行列を見かけた通りすがりがまた並ぶ。一般に、順列・組み合わせとはそういうもので、確率と必要条件との水素結合によって、配偶者控除が行われるのだ。

 ようやく、「MOJIの群レ」というタイトルにふさわしく、“この作品”への言及が出てきました。言ったそばから断言が更新されていくので、多声的な語りと捉えてみたくもなりますが、それにしては文体がいつまでも変わりません。文と文とを接続する語が機能していることからしても、読者はこの文章を統一的に読むことになり、また、“この作品”とはどこからどこまでのことを言っているのか、“この作品”は何についての「冷徹な考察をカリカチュラルに描いた」ものなのか、などを考えます。
 そしてありがたいことに、そんなことを考えるのはあきらめてしまっても、この作品を読みつづけていくことができます。ここでまた五行空きが入るからです。
 こうして断片を拾いながら読みつづけると、こんな断片が出てきます。

 メビウスの輪クラインの壺、ボロメオの環、ペンローズの三角形、ネッカーの立方体。ヤエミアな名前を持ったお菓子を作っているのは、特別急行のショポンな途中駅から、坂道を流れていった先にある、マサイな楡の木の根元にポンゾマと空いた穴にあった、彼女の高価になりつつある黒いおしりに賭ける、という店のシュリマンとした運命の輪だ。カウンターに寄りかかりながら、モナドとピパポフォッチに言葉を交わしていた。音もなく近づいていくと、モナドはチッパン驚いたように見えた瞬間にガーサッスと飛んでいった。
 赤ワインは運命の輪からライプニッツクッキーを買った。モナドを追いかけようとしたけれど、翼がなかったので、ブドウに戻ってアロアロムッセと天を目指して育った。

一見すると途方に暮れそうな文章ですが、たいしたことはありません。なぜって、私たちは基本的には、こんな文章くらいかんたんに読み進めることができるからです。
 第1パラグラフで確認したとおり、固有名や固有名詞やは、その指示対象がわからなくても、たいした問題は起きません。また、形容詞や副詞や(「解説」では「オノマトペ」とも)は、そのニュアンスがさっぱりわからなくても、何に対する形容なのかさえ把握できれば、それだけでだいぶ読みかたの幅が狭まります。そこで、上記の文章から、よくわからない形容の言葉をぜんぶ外してしまい、さらに文中の固有名をNxと書き換えてしまいましょう。ついでに、「運命の輪」「モナド」「赤ワイン」を登場人物の名前とみなして、Cxで置き換えます。するとこうなります:
 「N1, N2, N3, N4, N5。名前を持ったお菓子を作っているのは、特別急行の途中駅から、坂道を流れていった先にある、楡の木の根元に空いた穴にあった、彼女の高価になりつつある黒いおしりに賭ける、という店のC1だ。カウンターに寄りかかりながら、C2と言葉を交わしていた。音もなく近づいていくと、C2は驚いたように見えた瞬間に飛んでいった。
 C3はC1からライプニッツクッキーを買った。C2を追いかけようとしたけれど、翼がなかったので、ブドウに戻って天を目指して育った。」
 なんにも難しいことはありません。「赤ワイン」が「運命の輪」のいる店に行き、「モナド」を発見するが、「モナド」には逃げられてしまった、というわけです。「飛んでいった」「モナド」を「追いかけようとした」のだけど「翼がな」いので追いかけられず、代わりに「赤ワイン」から「ブドウ」に戻って、ジャックと豆の木よろしく、「天を目指して育った」わけです。まったくもって合理的です。
 いま、よくわからない形容の言葉を9つ外しました。試みに、その箇所にもっとわかりやすい言葉をあてはめてみましょう。たとえばこうです(私が勝手に入れた言葉は太字にしました):
 「N1, N2, N3, N4, N5。奇妙な名前を持ったお菓子を作っているのは、特別急行ひなびた途中駅から、坂道を流れていった先にある、巨大な楡の木の根元にぽっかりと空いた穴にあった、彼女の高価になりつつある黒いおしりに賭ける、という店の小股の切れ上がったC1だ。カウンターに寄りかかりながら、C2と楽しげに言葉を交わしていた。音もなく近づいていくと、C2ははっと驚いたように見えた瞬間にふわふわと飛んでいった。
 C3はC1からライプニッツクッキーを買った。C2を追いかけようとしたけれど、翼がなかったので、ブドウに戻ってすくすくと天を目指して育った。」
 形容過多! と思いませんでしょうか。これほど短い文中に9つもの陳腐な言葉を入れた上記のヴァージョンは、明らかに文章全体を陳腐にします(そこで語られている内容に驚きがなければなおさらです)。そのような文は他の箇所にも見られます。

 モナドはちょっと行っては止まり、振り返って、まるで私たちが帰ってしまうことなどあってはいけないかのように、なんとしても自分についてこさせようとしているように思えた。

 雀は里芋だし、ヒヨドリはじゃがいもか八頭だし、カラスは茄子に見えた。そんな野菜が空を飛べるわけもないのに飛んでいた。里芋が地面をぴょんぴょんと跳び跳ねるように動き回っているのは、おもしろかったので、まじまじと眺めていたけれど、茄子が空から落っこちてきて、里芋は何処かに飛んでいってしまった。
 私は今、植物園の中をのんびりと真ん中に向かって歩いている。

1つめに引用した文では、「ように」という語がきわめてぞんざいに扱われていますし、2つめに引用した文では、「ぴょんぴょんと」「まじまじと」「のんびりと」と副詞の3連打があります。
 さて、このような陳腐な文で綴られている作品を、なおも文のレベルで語ることは、もはやナンセンスかもしれません。むしろ着目すべきは、引用部に見られる、「跳び跳ねる」「眺めて」という漢字のつくりの連発なのではないでしょうか。
眈 <グラタン焼けたかな
眺 <うわっちっち
というAAなんか(「ぷ ←イルカ」でもいいですよ)を思い出しながら、裏表紙に並んだ「wwww」「vvvv」を見てみましょう。ここでは、文字の集まり「wwwvww」や[vvwwwwwwwww」やではなく、「w」と「v」との形状の似通いこそが着目されています。
 ずいぶん細かいところに目をつけている書評だ、と思われるかもしれません。たしかに、「解説」にもあるように、「どういうわけだか、道路がトマトで埋め尽くされて」しまう「野菜の反乱」の挿話とか、「屋内市民広場のような場所」で「一日中携帯ゲーム機で遊んでいる若い女性」の挿話とかのように、これはと思う物語内容がないわけではありません。「出玉は長男で、鉄砲玉はいとこである。」みたいな、調子のいい1文だって見つかります。しかし、タイトル「MOJIの群レ」を、強力な解釈項として愚直に受け取るなら、物語内容や文や語彙やといったマクロな話題は、ここでは背景に退いてしまいます。
 本文にもあるとおり、「それらを統括する必要がなければ、統括できるわけもない。」ということを念頭に置いて、冊子を横にしたり、ひっくり返したり、斜めにしたりしながら、しばらくこの作品に含まれた「MOJIの群レ」をためつすがめつしていると(「目玉の中にいる赤ん坊をしっかりと産み出さなければ」!)、あることに気づきます。この作品には1種類、文字とは言いがたい形が頻出しているのです。
 それはさきほどから述べていた、五行空きに含まれる「◇」です。




 「MOJIの群レ」を持っているひとは実際にやってみてほしいのですが、この冊子を手に持って(さかさまに持つのがいいです)左右に傾けてみると、ほかの文字はそれについていけず明瞭には読み取りがたい「MOJIの群レ」になるのに対し、この「◇」だけはいつでもどの見開きでも浮かび上がって見えます。すべての見開きに登場する「◇」こそ、この作品を通じて登場する主人公であり、「私たち」が「追いかけた」「モナド」だったのではないでしょうか。
 さきほど引用した部分を、こんどは写真に撮って掲載します。

 「モナド」は天に飛んでいったのです。


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miitohikari