あなたのkugyoを埋葬する

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Sullivan, *A Critical Introduction to Queer Theory*(2003)はラディカルフェミニズムをどう扱っているか

ご質問いただいた件に関連して,最近手元に来たNikki Sullivan, *A Critical Introduction to Queer*(2003)でマッキノンに言及している箇所を訳出しました.

A Critical Introduction to Queer Theory

A Critical Introduction to Queer Theory

 RichやWittig同様,ほかの多くのフェミニズム系論者も,異性愛はどう考えても女たちを抑圧しており,異性愛は家父長制がそれ自体を維持する方法の主要なもの(のひとつ)であるので,それゆえに異性愛フェミニズムと相反するのだ,という考えを採用している.この考えがいちばんはっきり出ているのは、ラディカル・フェミニスト,たとえばCathercine MacKinnon, Andrea Dwrokin や Sheila Jeffreysの論考かもしれない.たとえば,*フェミニズム表現の自由*のなかで,MacKinnonによれば,「女性という性のありよう〔female sexuality〕は,男性至上主義的定義によれば,自己滅却への官能的欲望[によって形づくられる]とされる」(1987: 172)し,このことがもっとも明確にみられるのはポルノグラフィにおいてである,と論じられる.ただし,MacKinnonの主張は,ポルノグラフィが単に女たちへの害をしばしば引き起こしたりまた引き起こしうるということだけにとどまってはいない.もっと重要な点は,「ノーマルな」と言われる異性愛はいつももはや〔always already〕ポルノグラフィ的であり,したがって,非平等主義的で,抑圧的で,暴力的で,女たちを下位に置くことの中心をなしている,というものだ.
 Andrea Dworkinも,性行為の伴う異性愛を,男性の支配や暴力と同じだと考えており,その論理的極致として,この立場を(異性愛的)性行為そのものを拒否することへの義務〔calling for the rejection〕として扱っている.2章で扱っておいたthe Leeds Revolutionary Feminists同様,Dworkinもまた,性行為に改善の余地はなく,したがってペニスの挿入をこれ以上やってはいけない,と主張する.Dworkinが言うには,「男性権力――ペニスの権力――の世界では,すべての〔mortal〕正常な男たちによる性交とは,権力・セックス能力・所有が合わさった本質的な性的経験だ,ということになっている」(1987 *インターコース*: 124〔邦訳だとp. 140〕)。性行為についての記述のはずなのに,ぱっと見ると強姦の記述と取り違えかねないような,そんな混乱させる文章を引きながら,Dworkinは「男は境界を越えて押し入らなければならない……この押し込みは,日常的な侵略〔persistent invasion〕である.女は押し広げられ,中心部分を裂かれる.女は,肉体的にも内面的にも,プライヴァシーを占領される.」(1987 *インターコース*: 124, 〔邦訳だとp. 210でなんか変だが,たぶんp. 140で終わる5章と,p. 210から始まる7章とのあいだに,どこかで6章がはさまったのだろう〕)と言う.
 ここで異性愛的性(性行為)は,本質的には,男性だけが勝者となれるような戦場となっている.したがって,異性愛についてのDworkinやMacKinnonの見解では,性的倫理とは,男らしさと女らしさ・積極性と消極性・権力と無力・挿入する側とされる側・性交するほうとされるほう,といった観念の本質を決めるか,あるいは逆にそうした観念によって本質づけられるものとして据えられたもの,Moira Gatensの指摘を借りれば,そんなものとして「いつももはや運命づけられている」ものとされる.こうした異性愛的表象が(歴史的にも文化特異的にも)広範囲にわたって構築されたもので,その生きた具体化がまったく物質的な方法でなされているとしても,それは不可侵の真理などではまったくないのだ,という可能性が考慮されていない,ということはありうる.しかしながら,Foucaultが主張したように,性のありようとは権力/知識の体系の真理の-効果〔truth-effect〕なのだとすれば,DworkinやMacKinnonの異性愛や性などについての説明は,女性を消極的で,挿入される側で,無力なものとして具体化することを構築し,再確認することに加担してしまっていると言えるかもしれない.しつまり,この戦場を,つまり主導権をとるための奮闘が繰り返し再演され,そして最後には勝利が能動と同一視され敗者が受動と同一視されるこの戦場を脱構築するのではなく,DworkinやMacKinnonら自身がその戦いを再演し,同じ古くからの脚本を要約し,そして――不注意に〔inadvertantlyとなっているがeの誤植だと思う〕とはいえ――男性がつねに勝者だということを確認してしまっている,と言えるかもしれない.


(N. Sullivan, A Critical Introduction to Queer Theory, 2003, pp. 122-124)

ちょっとわかりづらいですが,あまり好意的な紹介ではないもよう.
 それはさておき,マッキノンらの方針は異性愛中心主義批判にもなるはずなのに,マッキノンらのグループが制定した法案がLGBT表象の弾圧に使われているともききます(注文中ですが,ストロッセン,ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性 に載っている例だそう).異性愛中心主義批判が,異性愛中心主義に則ったこの世界を前提にして行われるものであるのは当然とはいえ,理論的には当然そこは独立しているはずで,どういう政治的力関係が働いたのかはちょっと気になります.
 ここのすぐあとで紹介されているレズビアンフェミニストSheila Jeffreys のことはよく知りませんでしたが(第1期のクィア理論入門公開連続講座でやったかも),レズビアンのブッチ・フェムなど性行為のうえでの役割が,上で主張されているような支配関係を模している,などについての分析をしているようで,だいぶクィア寄りな感じですね.ICUのCGSで読書会も今年あったみたい! CGS読書会・水曜日:Sheila Jeffreysリーディング


 あとドウォーキン,寺沢(訳),*インターコース*(1989)の訳は手元にあったので参考にしましたが,誤訳などの責任は私にあります.なお当ブログではalways alreadyの訳として「いつもすでに」を採用していましたが,“アプリオリに近いぐらい取り返しがきかない,やっべー”感を出すために「いつももはや」を推していこうと思います.