あなたのkugyoを埋葬する

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"汎用サーチライト"その5

 論理学はちゃぐちゃぐ馬コ。


 「ファインダーからの眺め」は『ノエイン』『ゼーガペイン』 を、量子的ゆらぎというかなり明示的な共通項を使って拾い上げ、ビデオカメラのファインダー越しの客観/主観という読みから映画『20世紀ノスタルジア』につなげた評論。放映日時でいうと、『ノエイン』は2006年3月まで、『ゼーガペイン』は2006年4月から、なんだね。


 「聖痕伝説 映画『切られ与三郎』(一九六○)の非意味の傷、不可視の傷」は歌舞伎狂言の映画作品で、それをこんなにおもしろく論じられる書き手の筆力には脱帽である。なにしろ書き手自らが、主人公の義理の妹お金の役者の演技を批判して、

映像におけるこの娘は、いぜんとして耳障りな首を傾げたくなる存在で在り続けている。たとえ映画制作当時お金を演じた若手女優の演技が稚拙であったと言えたとしても、それはまた別の話である。物語との有機的結合として映像を受容する者が釈然としないことに何ら変わりはない。

と言っちゃっているほどの作品を論じようというのである。というか、これでは「与三郎が浮かばれないのではなかろうか。」を起爆剤にして評論にエンジンをかけるわけだ。与三郎の「ままならなさ」や悪党性などをキーに、顔の「不可視の傷」について論じていくさまは映像論の手本にしたいぐらい。
 もっと簡単に言うと、いままで何の興味もなかった作品について受容したい気にしてくれるこの評論は、その点からもまったく文句のつけようがない。ただ、「『切られ与三郎』なんて題名の映画を見るんだから受容者には傷を見たいっていう欲望があるはずでしょ」というp16下段の議論だけは、ちょっと言いすぎか、あるいは説明不足ではないかしら。そうだからといって、論の筋にはほとんど影響しないけど。


 「スケベの本質とオトメチック」は、西島明の戯曲『オトメチックルネッサンス』『別冊オトメチックルネッサンス 接吻は愛の速記術』を、与謝野晶子の「をとめ」概念を使いながら読んでいくもの。書誌情報がよくわからないんだけど、『オトメチックルネッサンス』は演劇ぶっく社から出版されているらしい。
 与謝野晶子解釈については、わりと教科書的というか、扱うものがものだけにしかたないのだけど、正統派だと思う。「オトメ」「オトメチック」という語がある認識の構造を現在まで形成してきたかどうかについては、ちょっとよくわからない、この評論ではそこまでは話は広げられないはず。
 演劇批評というものがどういうふうに成り立っているのかよくわからないのだけど、戯曲(文字媒体)について読むのか、演じられたその劇について読むのか、どちらかに態度を決めなくてよいのだろうか? もちろん1つの評論で両方を見ることはまったく問題ないんだけど、この2つのレベルを混同している部分があるように思った。


 「座談会―「アニメについての語り」について語る」は、たぶん話の前のほうで用語が出てしまったから前提のようになってしまっているのだけど、「萌えアニメ」「作画アニメ」というものが、アニメの持つ性質として、実際にあるのだ、としてしまっているのがまずい。もちろん、「「萌えアニメ」と呼ばれるようなもの」というような言い方で、いちおうクッションはしてあるのだけど、「萌えアニメ」というものは、「純文学」と同様、所与のものとしては存在しないのであって、議論すべきはあるアニメに「萌えアニメ」という性質を与えるような解釈のしかた、であるはず。
 また、多くのアニメの感想は共感を得るためだけに用語を使っていて批評をしようとしている、という着眼点はいいんだけど、「だからそれはおかしい」とはならない。だって、もしそうだとすれば、アニメでないものに対する批評(たとえば文学批評とか社会批評とか)はそうでない、と言わなくてはならないが、そんなもの(評者の動機)と批評の的確性とは特に関係づけなくたって読めるからだ。
 これは、アニメ批評やアニメ論をしようとするひとがなぜかよくつまづくところだけど、アニメ批評の問題は語の定義ではない。たとえば文学批評を見よ、「これは純文学だ」などと言わなくたっていくらでも批評はできているではないか。だから、そんなもの、論ごとに適当に定義すればいいし、カテゴリわけに無理を感じたら、そんなものは放棄してしまっていっこうにかまわない。


 タイトルと作者名が入っていない文章が収録されているが、これは、『見果てぬ夢』で解説されているとおり、谷川流の「涼宮ハルヒシリーズ」の文体模写。『涼宮ハルヒの憂鬱』以下一連のシリーズは未読なので成功しているかどうかは判断できないが、

 名のないテクストに名がないのは、それが「ハルヒ」の文体模倣であるならば、その限りにおいて、そのこと以上の名はないからである。


原友昭『見果てぬ夢』、"汎用サーチライト 第三号"p.86

というのは、ちょっとふしぎに思った。つまり、なぜ「谷川流」の署名を入れてしまわなかったのか、ということだが、よく考えてみると、そのこと自体、純なほうのテクスト論でいきますよ、という立場表明なのだな。なるほどね。


 雑誌のつくりの面をいうと、注のつけかたは第二号よりずっと読みやすくなっていたが、やはり書誌情報が欠けているのが気になる。それと、座談会ページの行末がガタガタだったけど、どうしたんだろう?