あなたのkugyoを埋葬する

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村上春樹も詰まると煮詰まるとを間違える

 負傷した足を診察しに行ったら、医者に包帯をいただいた。


 と、このように書くのは、問診票に「診察される方のお名前」とあったからだ。「医者が診察する」「患者が診察する」はたまに話題になる事柄だが、私の感覚としては、診察するのも診断するのも観察するのも主体はみんな医者のほうであって、患者はその客体としてあるのだ、というほうがしっくりくる。常識的な考えだ。だから「診察される方」というのは敬語ではなく受身の「る」連用形である、と読むことになる。「診察なさる方のお名前」ではだめなのだ。
 しかし、主体と客体とを考えてみると、患者は医者のもとへ行くまでは患者ではない。受診(診察を受ける)する人間がやってこなければ、医者は主体としての権利を行使できない。かってにひとの家へあがりこんで治療してまわるわけにはいかないのだ。つまり、医療行為の現場ではたしかに医者が主体で患者が客体であるけれども、その主体に権利を与え操っているのは患者であろう。
 もちろん、搬送されてきた意識のない患者については、その承諾をとらずに医者はかってに治療するのだけど、そのときそれはいかなる意味でも主体的に行動できない「もの」でしかないから、ここで使っているような主体-客体関係は生じない。
 このように考えてみると、じつは「診察する」のは医者と、その裏側にいる患者であり、その両者こそが主体であった、ということに気づく。では客体とはなんであったのか? そう、医者は患者を治療しているのではない。患部を治療しているのである。「診察される」(受身)のは、患者ではなく患部だったのだ。


 こうして、我々は医者-患者という二項対立から、医者と患者との共犯によって発見される(作り出される)患部という新たな項を発見するに至った。医者が診察するのだし、患者も診察するのだ。ふたつの語法「医者が診察する」「患者が診察する」はともに正しかったのだ。



 こういうのは広義の脱構築とはいわず(対立構造は保存されているから)、アウフヘーベンっていうんじゃねえのかしら。よく知らないので、とりあえず正・反・GO!(MAX!)と言ってごまかしておく。