あなたのkugyoを埋葬する

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文学を社会化するのかなー。

 この1年、2テクストの優劣を決定する作戦を考えていたんだけど、テクストが価値を内在しているとはやっぱりちょっと思えないので、外在する価値基準を参照する必要があって、それはつまりテクストの外部を見なきゃならんということだ。そしてその参照先は社会になると思うんだな。


 なぜか。まず、読者に何の影響も与えないテクストに価値がないことは明らかだろう。そして、まったく何の影響も与えないテクストというのは存在しない。たとえばページをめくる時間を考えよ。ここで注意しておくが、影響を与えられてしまう読者を考えているということは、テクストと一定の相互作用をする読者を考えているわけだから、とうぜん、読む行為を考慮に入れざるをえない。だからこれは"理想的読者"というときなどと同じ言葉遣いではない。
 さて、私(かなり限定された「私」ですよ)にとって価値がある、というのであれば、とくに理論化する必要はないわけで、理論化する以上は、少なくとも共有可能な価値基準であることを言えていなくてはならない。で、共有可能、ということをあまり広く捉えすぎると、また相対主義に戻ってしまう(問いを立てた目的が達成されない)。したがって、どの意味で共有可能なのか、を定めておく必要があるが、これはつまり、ある価値基準(2テクストの優劣決定の価値基準を決める理論)には価値がある(共有可能より少し狭く、共有する妥当性がある、ぐらい? まあ言葉遊びですが)、ということを示そうとしていることになる。
 というわけで、話を倫理学の一分野である価値論に持ちこんで、そこの議論を応用したいんだけど、それがうまくいかなくても、この価値基準の価値は私の属するこの社会が決めてくれる、と言う方法はあるよね、という寸法。


 たとえば、イーグルトン先生は、作品の価値は既存の社会にアタックするかどうかによる、てなことを言いたいはずで、だからマルクス主義批評とか(一部の)フェミニズム批評(うーん、ガイノクリティシズムかな?)とかをプッシュしているんだったと記憶しているが、その(イーグルトン先生の)価値基準の価値はどうやって保証するのかね? という問題があると思う。つまり、私の属するこの社会にアタックするような価値基準は、私の属するこの社会に認めてもらえないんじゃないの? あるいは、私の属するこの社会に認めてもらえるような(社会への)アタックしかできないとしてもいいけど、それじゃあんまり意義ないよね? という問題。


 あと、ともかくも我々は2作品に優劣をつけているので、それはなにに由来するのか? を研究する手法もある(これもイーグルトン先生はやってたんじゃないかな)。しかしそれは文学(共時的なものへの作業、の意)というよりは歴史学(通時的なものへの作業、の意)になるだろうな。もちろん、歴史学のひとたちはそんなことやってるひまはないので、文学のひとが歴史学のまねごとをすることになるわけだが。


 明朝なにを書いたのかもっかい確認しよう。