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『1000の小説とバックベアード』批評2 〜ワナビww才能がなくて残念ねwwwww

『1000の小説とバックベアード』批評 〜読んでるおまえは「僕」じゃねえ! - kugyoを埋葬する
 上の、佐藤友哉『1000の小説とバックベアード』を批評した記事で、

 『1000の小説とバックベアード』では、「僕」はなんとしても読み手ではなく書き手の側にいつづけようとする。

と書いたところ、「僕」が読み手になろうとする箇所がひとつある、という指摘をいただいた。それはpp.199〜200にある。引用しようか。

「配川さん、小説家になりませか?」
「でも、私が小説なんて、それは……」
「報酬はお支払いします。小説家として正当な報酬を」僕は早口になった。「原稿料は一枚一万円、枚数はいくらでもかまいません。正直、今はお金がないから後払いになってしまいますが、だけどちゃんと払います。というわけで、小説を自分一人の力で書き上げてください。それが僕の依頼です」
「……一つ聞いていいですか?」
「なんなりと」
「やみという安全な場所から『一○○○の小説』を羨望しつづける女に、どうしてそんな甘い言葉を投げかけるんですか?」
「あなたの書いた小説が読みたいからに決まってるでしょう」まっすぐな言葉を云った。「お金を払ってでも配川さんの小説が読みたい。それだけです」
「だけど、小説というからには読者が必要です。私の読者はどこにいるんですか」
「出資者に多くを望みすぎですね。そこはあなたが努力すべき部分ですよ。それに……」僕は自分自身を指さいした。「もし読者が一人もつかなかったとしても、僕がすべて読みますから。一字一句欠片も残さず、すべての文字を、すべての文脈を、すべてのすべてを読みますから」
 宣言した。
 云い切った。
 運命共同体
 こちらも覚悟を決めている。

 長くなったけど、これがpp.29〜30のシーン(「配川ゆかり」が、「僕」に、小説を依頼するシーン)と対になっていることに気が付かない読者はいないだろう。なにしろ、これだけ長く、そっくりな文章を続けているんだから。
 対? では、ほんとうに、「配川ゆかり」と「僕」とはこのシーンで(pp.29〜30と比して)対等の地位に立った、のだろうか? 「僕」は読み手にまわることを甘受しているのだろうか?


 「僕」は、「無職で二十七歳で貯金も三十万円しかない」(p.28)ことを思い出してほしい。本人も言っているように、「僕」には「配川ゆかり」への原稿料が支払えないのだ。ところが、じつはこのあとすぐ、「僕」はそれを支払えるようになるはずだ。なぜか? もちろんそれは、「配川ゆかり」とのpp.29〜30での契約どおり、小説を書き上げたことで、その原稿料が入ってくるからだ。
 その、「僕」が書き上げた(書き上げるはずの)小説とは、

 片説家をクビになった日から、片説家に否定された日までの記録をパソコンに入力してみると、液晶ディスプレイにいくつもの文字が並んだ。
 小説しか書けなくなっているはずの僕が、文章を書けている。
 つまり……この文章は『小説』なのだ。
(p.127)

とあるように、『1000の小説とバックベアード』のことに他ならない。私たちが読まされてきたこの文章(小説)こそ、「僕」の書いている文章なのだ。少なくとも、作品中ではそういうことになっている。
 さて、『1000の小説とバックベアード』は、小説として出版されているからこそ、すなわち完成したからこそ、私たちの目の前に登場しているはずだ。ということは、作品内に戻ってみれば、「僕」は小説を書き上げたのである。となれば、「僕」は原稿用紙でだいたい370枚*1の小説を書いて、370万円の報酬を手にしていることになる。貯金とあわせれば、ちょうど400万円となるわけだ。
 というわけで、カネの裏づけがあるからこそ、「配川ゆかり」も「僕」の言葉を無職のタワゴトと一笑に付すことなく、「どうしてそんな甘い言葉を投げかけるんですか?」なんて聞き返してしまうのだった。


 ここで冒頭の問いかけに戻ろう。引用したpp.199〜200のシーンは、「僕」が読み手になろうとしているシーンなのだろうか? そうではない。というか、問い(と、私の語彙の用い方)が不正確であったというべきだろう。もう一度引用する。

「お金を払ってでも配川さんの小説が読みたい。それだけです」
「だけど、小説というからには読者が必要です。私の読者はどこにいるんですか」

 この部分を読んで、会話がかみ合っていないと思った読者は多いに違いない。だって、「僕」が「配川さんの小説が読みたい」と言っているんだから、「読者」はどこにいるもなにも、「配川ゆかり」の目の前にいるはずだ。ところが「配川ゆかり」はそれを勘定に入れていない。というか、「読者」と「配川さんの小説が読みたい」人とを、「配川ゆかり」(そしてp.30の「僕」)は区別しているのだ。
 この区別は、もちろん「小説家」と「片説家」との区別に対応している。片説には「読者」は存在しない、なぜなら片説は「読者ではなく依頼人に向けて」(p.9)創作されるものだからだ。言い換えれば、片説とは、だれもが日々使っている言葉による伝達、手紙とかメールとかと同じ地位にあるものなのだ。ここで「僕」が「僕がすべて読みますから。」と宣言するのはあたりまえで、「配川ゆかり」がこれから書いてカネを受け取るものは、「僕」に向けた手紙(片説)なのである。


 さあ、ということは、ここで「僕」は「配川ゆかり」に、
「オメーには小説なんか書けねーだろwwwwせいぜい片説(つまり「僕」へのラブレタ)でも書いてなwwwwwwほらよ つ370万」
と言っていることになる! それはたしかにそのとおりで、「配川ゆかり」は『1000の小説とバックベアード』に収録されたテクストのなかで1文字も小説を書いていない。
 「僕」は、はじめこそ「配川ゆかり」に依頼されて小説を書き始めたけれども、ついにはほんとうに小説を書いてしまった。このかぎりで、だれがなんと言おうと、「僕」は読み手である以前に書き手として現れる。しかし、それが依頼されたものだとしたら、片説ぎりぎりのものだったとしたら、「僕」の書き手としての地位は失墜してしまう。そこで「僕」は『1000の小説とバックベアード』という奇策に出た。自らの書き手としての地位を失墜させかねない「配川ゆかり」を、「僕」は自分の小説のなかに閉じ込めてしまったのだ。「僕」は、「配川ゆかり」が小説を書くシーンをまったく小説に書かないことで、
「僕」>>>>>「配川ゆかり」(小説家的な意味で)
を決定づけたのである。『1000の小説とバックベアード』はもう書き終えられてしまったのだから、『1000の小説とバックベアード』に登場する「配川ゆかり」が小説を書くことはありえない。たとえ書いたとしても、それを書いたのは、『1000の小説とバックベアード』に登場しない「配川ゆかり」でしかありえない。したがって、「僕」が読み手に回ることもまた、ありえないのだ。


 『1000の小説とバックベアード』は徹底して凶悪な小説である。この小説に感動し、「小説を書くひとってみんなこうやって悩んでるんだよね、私もがんばらなきゃ!」と思ってしまう小説家志望の人々、たとえば「猪田さん」を、「僕」は陰でコケにしている。
 「小説を書くような心で書いたら、それはもう、小説」(p.201)とあるが、これは「だれでも小説が書ける」という意味ではない。「小説を書くような心」になることができれば、小説を書ける、と言っているのだ。つまり、小説を書けない人々は「小説を書くような心」になれないのだ、と言っているに等しい。ここまでくるとほとんど人格批判である。
 さらに、万が一彼ら小説家志望者たちが小説を完成させて「書く側」にまわることに成功したとしても、「僕」はそんなワナビーどもの小説を読む読み手に回ることはぜったいにありえない。だって彼はフィクションのなかの人物なのだ! こういうわけで、「僕」は一方的に、そのワナビーどもに『1000の小説とバックベアード』を読ませることに成功したのだ。


 前回の記事も踏まえてまとめよう。
 『1000の小説とバックベアード』は、「作者の死」などと言われ解釈の決定権が読者の側に移ったことを踏まえたうえで、「作者の書いたものを、読者が読む」という否定しがたい形式を利用した。その結果、いまなお作者という立場に世俗的なあこがれを抱いてしまう読者たちは、「僕」にあざわらわれる。そしてそのかぎりで、「僕」は最終場面に見られるように、幸福に満ちてこの小説を書き終えた、と言える。
 しかし、その多幸感、読者に書いたものを読ませることができる作者という図式を、じつは「浄水場」が破壊する。なぜなら、読み手が読むのは、じつは「書き手によって書かれたもの」ではなくて、単なる「書かれたもの」、テクストだからだ。世俗的な意味では「僕」は権力欲を満たし370万円を得たかもしれないが、「僕」が夢見た文学的な「耐久度」というものの前では、「僕」という主体は消え去ってしまうのである*2

*1:「新潮」2006年12月号の表紙に370枚一挙掲載って書いてあった

*2:いちおう、読み手/読者、書き手/作者を使い分けたつもり。