あなたのkugyoを埋葬する

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「オフェーリアの裏庭」批評 〜あらゆる場所に偶然が……

 2ちゃんねる文学板で、「群像 2008年 04月号 [雑誌]」に載っていた、海猫沢めろん「オフェーリアの裏庭」を読もうという動きがあったので、便乗して私も書き込んだのだけど、その後またそのスレッドは過疎状態になってしまった。文学板自体が過疎板だから、近々にスレッドが落ちるということはないと思うけど、このブログに転載しておこう。ちょっと冗長な文章だが、あまり編集はしないでおく。
 もとのスレッドを見てもらえばわかると思うけど、"畸形"なるタームは前の書き込みに基づいている。


文芸誌(掲載作品)の批評・感想スレ その2
 じゃ俺も「オフェーリアの裏庭」について。


「私」は、ちょっと知的にアレだと評価されてる子だったよね。
「今、この瞬間、答案をのぞき見しているという事実が、嫌な予感に追い打ちをかける」(p.50)
ってのは、「ヤマグチくんとナガイくん」のような畸形ぎみの子の答案をすらものぞき見する必要にかられるぐらい、「私」はダメだったってことでしょう。
で、「私」は2人を蹴落として、畸形側から普通側へもぐりこむんだけど、
でも「オフェーリアの屋敷」に来て畸形側に呼び戻されちゃった、という話。
たとえば「ガンダーラ」が裏声で歌うときに、「それが歌であると自分が認識できている」(p.53)のは、
不思議でもなんでもない、「私」ももとは「ガンダーラ」と同じ畸形サイドの者だったからなのね(「オーラの色、わたしと同じね、同じね」(p.56))。
で、「隅っこ」の「親指ほどの小さな」「ダース・ベイダー」と「レイア」という名前だけから「スター・ウォーズ好き」だと断定してしまうぐらい(SWだったら"パワー"ストーンなんて言わなくない?)に、
ガンダーラ」にシンパシーを抱いてしまっている「私」は、「レイア」に性交を迫られたりして、
だんだん畸形側へ取り込まれかけていく、かに見えます。


ところが、ここで逆転の道(「けれど―」)として、「私」は「ある一枚の写真を思い出」すんだよね。
その写真は、「半分必然」(p.60)だけど、ということは残り半分は偶然に撮影された、奇跡的な写真です。
ここから、彼は「現実における奇跡とは非現実が現実を超えるということである」
「奇跡を目にした瞬間に、人は感動したり、壊れたりする」(p.60)という洞察を導き出します。
で、彼は畸形側に取り込まれない材料として、その写真を思い出したのでしたけど、
奇跡が人を壊すものだとしたら、つまり畸形側へ入れるものだとしたら、
奇跡があっては困るよね。あったら目にした人は畸形側へ入っちゃうんだから。


ところが、ここで彼は畸形側/普通側、という彼がいままで囚われていた二分法(とそこから生じた劣等感)をぶっこわします。
つまり、「奇跡など、いまやありふれたもの」(p.60)なので、要するにみんな畸形なのです。もとから二分法は成立してなかったのでした。
だから、「ありふれた」なんて発言が、「オプティミストの私」としての発言となるわけですね。奇跡がありふれてることによって、「私」は自分が畸形でまわりが正常、という二項対立を消してしまったのでした。
だから、「耳の奥で映画館で聞いた観客たちの声がよみがえ」っても、
「私」はもう「泣いたり、怒ったり」しません。冒頭を思い出しましょう、彼は
「私のほうがそれに気づいているぶん彼等よりも上である」
という論理で自己肯定をはかったのでした。
「私」は「彼等」と違って、だれもかれも畸形側だということに気づいている。
だから「私」は自己肯定ができ、その気づきの証として、「自分の石を財布に入れ」たのですね。


最後の1行は、当然、「三角屋根」=「三角屋敷」を表しています。
世界は畸形側に人を連れ込む「奇跡」=「単なる偶然」で満ちているわけ。