あなたのkugyoを埋葬する

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でろんぱから虚構キャラクタの権利へ

 以下はメモなので、あとで個別に検討して書き直すおそれがある。

  • なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)』読了。ポイントは押さえた。この永井のチャーマーズ批判は、チャーマーズの「われわれ」を「私」に書き換えればかわせてしまうのでは? あと「人間の意識」を「私の意識」とか。ついでに言えば、チャーマーズの著作を本ではなくチャーマーズの内的発話だととらえればよい。と、書きながらそう簡単にはいかない感じがしているが、基本的にはこの線で片付けられそう。その他、ゾンビに関する議論については、永井の用語法が正統的でないか(こっちっぽい)、あるいは、三浦の批判(『感情とクオリアの謎』収録)が当たっている。
  • ちなみに、ポイントを押さえたというのは付箋紙を貼ったとかそういうことである。ただし、借りた本に付箋紙を貼るとのりを栄養としたカビが生えますから、やってはいけません。
  • 意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』を著者推奨のチェックルートに沿ってチェック。すなわち1〜4章を、2章のはじめの部分を飛ばして読んだ。永井の批判はある面では当たっている。
  • 意識の哲学―クオリア序説 (双書現代の哲学)』読了。やはりポイントは押さえた。痛みの客観化についてはあやしい。痛覚神経を自由にオン・オフできるとして、オンにしたらいつでも痛みが伝わってくるんだから、そこには(目を開けたら君がいる、的意味で)痛みがあるだろ、というのだが、伝わってくるのは痛覚神経を通ってくる刺激(電流なんだっけ?)であって、だから「手の痛み」というのはないのでは。信原幸弘じしん、「湯が熱い」のは湯に触れていないときも熱いでしょ、という例を挙げているけれども、これと「手が熱い」とを比較してはいけない。なぜなら「手が熱い」は省略した用法で、実際には「手センサの位置に熱さ感覚の発生源を探知!」だからだ。たぶん、信原を擁護するなら「手」の範囲を脳の神経系まで拡大して考えればいい、ということになるのだろうが、そうすると問題は意識と脳との接点に終着してしまう。
  • お前は何を言っているんだ。
  • 意識の哲学―クオリア序説 (双書現代の哲学)』について、空飛ぶブタは事物的に不可能(思考不可能)だが、黄金の山はそうでない、という議論は、わりに説得されたが、可能世界を通じた対蹠物counterpartの考えかたを用いて、現実世界の「ブタ」の対蹠物すべての集合の要素を指す「ブタ@」を導入すればよいのでは。いや、この議論はちとあやしいが、そうでなくても、文脈に応じてブタ概念を適当に指定する(「空を飛ぶようなそんなブタの話をしてるんだよ!!」)ことがそんなに悪いことなのか、というのは、2章5節「誤った概念」を見たあとだと当然抱かれる疑問であろうな。
  • ぶったあっと♪ あっとめいと
  • クオリアについて、おれはクオリア実感がほとんどわかないので、「赤いものを見たときに感じる、あの感じ」と言われてもよくわからない。これは、正確に言うと、個々のクオリアを感じていないのではなくって、「以前に感じたあのクオリア」を記憶しておく力が弱いために、あのクオリアとこのクオリアとが同じ「赤のクオリア」であると言えない、ということに基づく。このことは、『感情とクオリアの謎』9章「クオリアクオリア実感」(篠原成彦)を読んで気づかされたことだ。その論文では、クオリアは記憶力によらず、(ウィトゲンシュタインの「E日記」同様)原理的に同定できない、と論じており、その部分は正しいと思う。ただし、クオリアについて言われているような問題がこんどはクオリア実感にうつるので、篠原の方針でクオリアを消去できたとしても、問題解決とはいかない(と、篠原も若干気づいてはいるよう)。
  • とまれ、このようにクオリア実感がわかない状態では、いまのところ既存のクオリア関連の議論についていく気力を保てないことがわかった。
  • ところで、『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』には可能世界に関する議論もけっこう載っているじゃないの。うーん、あまり文献にあたらずに勉強していることがばれるなあ。
  • というわけで、可能世界について考えているうちに、虚構キャラクタの権利という問題を考える脳状態になった。
  • 方針としては、われわれも虚構キャラクタと同等なんじゃん?(シミュレーション論法) と言い、そうだとしてなんか問題があるか考えてみて、最後にちゃぶ台返しとして、シミュレーション論法を論駁して我々を規底現実へ送り返す。世界を救うのはもちろん様相実在論である。
  • 以上、7時26分に記録。これから大学へIKUZO。