あなたのkugyoを埋葬する

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汝を読むものに復讐せよ

 フェミニズム批評に対する誠意のなさを叱られながら、友人と協力して、こないだの英文の意味をやっととれるようになった。引用。

Instead, that crime serves as an opening for Raskolnikov to come in contact with Svidrigaylov, who in turn comes in contact with Dunya which enables both men to admit their to each other their "insect" suffering and hopelessness (CP, 305).


Nina Pelikan Straus, "Dostoevsky and the Woman Question: Rereadings at the End of a Century", p24.

 なお、CPとは本文で使われている略号で、(CP, 305)とあればCrime and Punishment, trans. David Magershack (London & New York: Penguin Books, 1951)の305ページを指す。
 まず、crimeがopeningとしてserveしてる、のopeningだが、これは「機会」と訳せる。つまり、

 そうではなくて、あの犯罪は、ラスコーリニコフがスヴィドリガイロフと出会う機会を提供するという役割をはたしている。

と訳す。ちょっとこなれていないが、あとで。
 で、関係詞whoとwhichとが残っている。このうちwhoはSvidrigaylovを指すから、in turnを「同様に」と訳して、

 そうではなくて、あの犯罪は、ラスコーリニコフがスヴィドリガイロフ(彼は同様にドゥーニャと接触する)と出会う機会を提供するという役割をはたしている。

となる。このin turnを「順番に」としか見られなかったのがつまづきのひとつであった。
 さて、残った関係代名詞whichだが、これの先行詞はDunyaではない、だってDunyaは人だから。ではwhichがとれる先行詞はなにかと言えば、それはopeningしかありえない。
 さてwhichの中を訳していくのだが、このさい、どう考えても意味不明の、admitのあとのtheirは、誤植だと考える。themに直したとしても、admitのあとにthemとto each otherとtheir sufferingが来るのはおかしすぎる。admit to each other their sufferingだったら意味が通るだろう。直後に同じ単語theirがあることも誤植だと考える根拠になる。というわけでこなれた訳にしてみると、

 そうではなくて、あの犯罪がラスコーリニコフにスヴィドリガイロフ(彼は同様にドゥーニャと接触する)と出会う機会をもたらしてくれるために、彼らは互いの"昆虫的"苦痛と絶望とを認め合うことになるのだ。

 となるであろう。ちょっと文脈が見えるように前の部分をとってくると、

 この、男と女との隠された戦いは、ラスコーリニコフが金貸しを殺害したことで明確になるのではない。だがかわりにその殺害は、ラスコーリニコフにスヴィドリガイロフ(彼は同様にドゥーニャと接触する)と出会う機会をもたらしてくれるし、そのため彼らは互いの"昆虫的"苦痛と絶望とを認め合うことにもなるのだ。

という具合であろうか。


 ところで、こうして訳してきたこの文で、当該の文を含むパラグラフは終わっている。次のパラグラフは、ドストエフスキーが犯罪と性犯罪とを小説後半で収束させようとして、……というふうにはじまるのだが、パラグラフ間のつながりがかなり読み取りづらい。おそらく、ラスコーリニコフ(犯罪者)とスヴィドリガイロフ(性犯罪者)とが共感しあうことから、犯罪と性犯罪とに一致点が見つけだせる、と言いたいのだろう。しかし、それならそうと書いておいてほしいものだ。
 まだStrausの文章を1章ぶんしか読んでないのだけど、全体的にパラグラフどうしの連関がはっきりしないため、論証がどこへ向かっているのかがなかなかわからず、ずっと先まで訳してようやくそれに思い当たる、という感じになる。これは短時間で概要をつかむのにはハードな条件であった。
 ただ、章の冒頭で述べていたとおり、Dostoevsky's polyphonic languageがstereotypes about genderにchallengeしていることはちゃんと示せていて、私の考えるかっこいい(悪ノリも含んだ)批評になっていた。もう少しじっくり読んでみようと思う。


 やっぱさ、理論読みをするときには、テクストが当の理論をおびやかしてくることを示さないと、読みの意義がないと思うんですよ。19世紀のテクストを20世紀の理論が読めるのなんて、後発なんだから当たり前のはずだし、どんな先行テクストにでもとりあえず「ほら、こんなに当てはまっちゃうでしょ?」と言えるようでなければ、そもそもそんなもんは文学理論とは呼べない。そのうえで、作家は文学理論をはみ出すような作品を考えてほしいし、批評家はさまざまな古のテクストを召喚して文学理論の軽率さを指摘してほしいし、文学者はそれをも取り込んで最強の文学大統一理論を目指してほしいですね。