あなたのkugyoを埋葬する

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optical_frogさんへの応答:実用論的汎反意図主義(汎テクスト論)の立場から

首尾一貫性に基づく作者の意図の擁護、を論駁する(『文学をめぐる理論と常識』について) - kugyoを埋葬する
 上記の記事について、id:optical_frogさんより、論証に問題点があるとの鋭いご指摘をいただきました。以下の記事です:
kugyoさんへの提案:文/発話および現実/虚構の意図を区別すると便利です(多分) - left over junk


 今回はこのoptical_frogさんの「提案」について、応答させていただきたいと思います。optical_frogさんの「提案」とは、次のようなものです:

  • 「反駁(2)」での例が言語ではなくて似顔絵なので,主張が十分に支持されない→“言語を例に議論しよう”
  • 一般に文の成立に話し手の意図は不要
  • 発話に関しては話し手とその意図を考えなくてはいけない→“文/発話を区別しよう”
  • 場合により,発話の意図は虚構のものであってもかまわない→“現実の話し手/作者の意図が必要でないケースがある”

 以上の4点、特に1点めと4点めとについて、以下に応答します。そのなかで、私が前記事で書き落としてしまっていたある前提を明らかにします。その前提を承認する立場を、実用論的汎反意図主義、汎テクスト論と呼ぶことができるでしょう。

応答(1) 反駁(2)の補足

 まず、1点めのうち、「「反駁(2)」での例が言語ではなくて似顔絵なので,主張が十分に支持されない」については、まったくご指摘のとおりです。前記事の執筆時点では、この移行に特に難点はないと考えていました。この記事でも、(optical_frogさんのご指摘とは異なって)この移行に特に問題があるわけではないことを述べようと思いますが、それを述べるためには議論が必要で、前記事ではそうした議論が欠けていました。ご指摘に感謝し、補足させていただきます。
 さて、前記事で足りなかった議論を補うため、はじめに、optical_frogさんにまとめていただいた、砂浜の蟻の例と猿のタイプライタの例との比較を引用します:

(6)
a. 文レベル:タイプした文字列 (1) が日本語の文を構成している:意図不要(チャーチルの似顔絵に対応)
b. 発話レベル:文字列 (1) がソースケ君の意図的発話を現実に構成している:話し手の意図は聞き手にとって現実のもの
c. 発話レベル:仮想的にごっこ遊びとして,文字列 (1) が意図的発話を構成しているかのように受け取る:話し手の意図は聞き手の虚構

このうちa.は上記の「提案」の1点めに、b.は3点めに、c.は4点めに対応していると考えられます。そこで私は、前述の予告を達成するために、a.はその分類のしかたに不備があり、b.とc.とはその区別に難点があるという形で、反論を試みたいと思います。


 a.の分類への反論は、以下の2つ、

  • 猿のタイプした文字列が、日本語の文を構成している (monkey1)
  • 蟻の足跡が作った模様が、チャーチルの似顔絵を構成している (ant1)

が対応する、という点への反論です。この2つの事態を説明した文どうしが対応していないことは、2つの事態の否定を考えればわかります:

  • 猿のタイプした文字列が、日本語の文を構成していない (monkey2)
  • 蟻の足跡が作った模様が、チャーチルの似顔絵を構成していない (ant2)

です。さてこう書き換えると、蟻についてのこの逆の事態を説明した文(ant2)は、

  • 蟻の足跡が、絵を構成していない (ant2-1)
  • 蟻の足跡は、チャーチルの似顔絵を構成していないだけで、絵は構成している (ant2-2)

のうち、どちらであるか不明であることに気がつきます。いっぽう(monkey2)では、タイプライタに日本語の文字の出力機能しかないとすれば、ありうる解釈は、猿のタイプした文字列が日本語の文を構成しておらず、かつそれは文でもない、というものだけです。タイプされた文字列が「求コンパをする私要はッペ」のような無意味な文字列になることはあっても、英語の文やチャーチルの絵になることはありません(アスキーアートのような事例は、いまは無視することにしましょう)。
 ほんとうに対応しているのは、次の2つの事態です:

  • 猿のタイプした文字列が、「私はコッペパンを要求する」を意味する文を構成している (monkey3)
  • 蟻の足跡が、チャーチルを意味する絵を構成している (ant1、再掲)

あるいは、次の2つの事態です:

  • 猿のタイプした文字列が、日本語の文を構成している (monkey1、再掲)
  • 蟻の足跡が、絵を構成している (ant3)

分析のこの段階では、猿や蟻の意図について考慮する必要はありません。これは、この事態のあと蟻や猿が取り除かれ、タイプされた文字列や足跡だけが残っている場合を考えればわかります。だれが書いたものであるかわからないからといって、「私はコッペパンを要求する」という文の意味が理解不能になるわけではありません。フレーゲがうまい区別を立てているので、彼と飯田隆先生の訳語とにならって(おそるおそる)言えば、放置された「私はコッペパンを要求する」という文の意義Sinn*1は日本語の話者にとっては明らかです。ただし、そのイミBedeutung*2はわかりません。同様に、だれが描いたかわからなくても、砂浜に残ったその絵がチャーチルを意味する絵に見えなくなるわけではありません。
 さてこう考えるなら、optical_frogさんの問いとそれへの答え、

(1) 「私はコッペパンを要求する」

(中略)

(3) 問題: (1) の意味はどういうものでしょうか?

もし,現実に「私」=ソースケ君がコッペパンを要求していると聞き手が解釈するなら,そこから様々な現実の帰結がでてきます:

はやや不適切であることがわかります。(1)の意義Sinnは明らかなのですが、そのイミBedeutungを考えはじめると、「現実に「私」=ソースケ君がコッペパンを要求していると聞き手が解釈する」ということになるのです。蟻の足跡が作るチャーチルの似顔絵について、この段階ではイミBedeutungには触れていないのですが、猿のタイプライタの例ではイミBedeutungに触れてしまったため、難点が生じたというわけです。つまり、こうした取り違えを解消するならば、「似顔絵(にみえる模様)について言えることが言語にも言える」のです。
 なお、optical_frogさんの(言語学の)用語、文と発話との区別に基づいていうならば、(1)を文として見たときの意味が意義Sinnで、発話として見たときの意味がイミBedeutungにあたります。

パトナムの(真の)誤り

 ところで、この考察によって、パトナムの「指示の魔術説」批判に対する私の批判は誤った方向を向いていたことがわかります。パトナムは、蟻の足跡はなにも指示しないと(議論なしで)言います。これは、フレーゲの言葉を使えば、蟻の足跡はなんのイミBedeutungも持たない、と言っていることになります。いっぽう私は、蟻の足跡はチャーチルの似顔絵を表現できる、と述べたわけですが、このとき私が議論できているのは意義Sinnについてであって、イミBedeutungについてではありません。
 むしろ私が指摘するべきだったのは、パトナムがうかつにも、蟻の足跡はチャーチルの似顔絵を「表現」できない、と述べた点でした。蟻の足跡がチャーチルの似顔絵を表現することと、蟻の足跡がチャーチルを指示することとは、明らかに違います。ところがパトナムはこれを混同してしまっていたのでした。「指示の魔術説」批判の奇妙さは、じつはこの点にあったのです。

応答(2) 実用論的汎反意図主義

 さて、optical_frogさんの提示したa.に対する反論は以上です。しかし、上記の反論が成功していたとしても*3、b.とc.との区別、つまり「提案」の3点め「発話に関しては話し手とその意図を考えなくてはいけない」が残っているかぎり、私はまだ文学テクストの解釈についての反意図主義を擁護することに成功したとは言えません。そこでこんどは、b.とc.の区別について考えます。ここで私は、「場合により,発話の意図は虚構のものであってもかまわない」という、「提案」の4点めに反論を試み、「発話の意図は、つねに虚構のものである」と結論づけたいと思います。これが前述した立場、汎反意図主義の持つ前提です。


 ふつう我々は、あるひとが「私はコッペパンを要求する」と発話したなら、そのひとにたとえば「私はコッペパンがほしい」という意図を帰属させるべきじゅうぶんな理由がある、と判断します。しかし、なぜひとに意図を帰属させなくてはならないのでしょうか? たとえば、そのひとの舌が意図を持っており、「私はコッペパンがほしい」はその舌の意図だとは、どうして考えられないのでしょう? あるいは、その発話がチャットでキーボードを介して行われたのだとしましょう。その意図をキーボードに帰属させて、どうしていけないのでしょうか? ほんとうはネットの向こうでそのひとは寝ていて、不気味にもキーボードだけがカタカタと動いているかもしれないのに? あるいは、そのひとは意図を持たないロボットか、あるいは哲学的ゾンビかもしれないのに?
 ここで、私が前記事で行った、あの壁の絵の思考実験が役に立ちます。思考実験の最後の例で、白いペンキの一撃のために、チャーチルの似顔絵のかわりに「私たちはコッペパンがほしい」なる巨大な文字列が出現したとしましょう。このとき「コッペパンがほしい」という意図を持つのはだれでしょうか? 監督者でしょうか、一団の人々でしょうか、それとも(文字を読むこともできない)無学な盗賊でしょうか? それら全員の集団? あるいはペンキ? 思考実験をたどりなおした方にはおわかりのとおり、この意図にはだれに帰属させるべき理由もありません。
 私が思考実験を通して明らかにしたのは、次のようなことでした。我々はふつう、ある発話の発話者(意図を帰属させるべき相手)をひとだと考えますが、それは恣意的な幻想、すなわち虚構だということです。ある文字列がだれか他者の意図的発話を現実に構成しているかどうかを、我々は原理的に判断できません。我々はつねに、仮想的にごっこ遊びとして、その文字列がある他者の意図的発話を構成しているかのように受け取るだけなのです。ひとではなく舌やキーボードに意図を帰属させることを阻む必然的な理由はなにもないのです。
 しかし、他者に意図が実際にあるかどうかは原理的にわからないとはいえ、我々は現に、ふつうの発話についてはそうしゃべっているひとにその意図を帰属させているじゃないか、という再反論がありそうです。これについては、プラグマティックな原因を指摘すればよいでしょう。つまり、そうすることで利益を得られるから、ふつうはひとに意図を帰属させているだけなのです。もしそうしなければ、我々はコッペパンをひとではなく舌にあげようと奮戦することになり、結果としてたとえばそのひとに殴られたりもするでしょう。もしこのような夢見がちな反意図主義者がいれば、彼は悲惨な目にあっているでしょうが、そういう目にあっているひとがいないからといって、上述の帰結への反例とはなりません。
 こうして、反意図主義者、テクスト論者は、その主張を文学テクストだけでなく、すべての文や表象に拡張することができそうです。すなわち、そうしたければ反意図主義者は、ある発話の意図を恣意的な対象に帰属させることができますし、虚構的な対象に帰属させてもかまいません(巨大な文字列の思考実験を思い出してください)。ただし実際上はひとに帰属させると大きな利益を得られるため、ひとに帰属させることが多いのです。あるいは、なにをひとつの発話として捉えるかすら、彼らにとっては恣意的でありえます。こちらも実際上は、いくつかの条件(時間的に連続している、空間的に近い位置にある、などなど)を満たした発話をひとつの発話とみなすと大きな利益が得られるため、そうしているに過ぎません。こうした立場を、実用論的汎反意図主義者、と呼ぶことには、もうご理解がいただけると思います。また、我々が実用論的汎反意図主義者であることになんの不都合もないことも、おわかりいただけたでしょう。
 ところで、実用論的汎反意図主義者は、文学テクストに触れるときには、実用論的な拘束から抜け出ることができます。逆に言えば、どのように解釈したところでなんの利益も損失もない文、それが文学テクストではないでしょうか。だからこそ我々は、文学テクストの解釈を、作者の意図からも社会道徳からも自由に読むことができるのです。


 なお、この立場をとったとしても、ひとが意識を持つ条件を議論することが空虚になるわけではありません。ただし実用論的汎反意図主義の立場からすれば、それはひとが意識を実際に持つと言えるための条件を議論しているのではなく、意識を持つと判断すると利益が得られるような条件について議論していることになるでしょう。こういうわけで、この立場は、真理の実用説にコミットしているといえるかもしれません。ただし、ほかの真理に関する立場、たとえば対応説や合意説や整合説などにコミットした場合どうなるかを検討することは、どうやら私の現在の能力を超えています。直感的には、どの真理説をとっても問題はないと思いますし、また外在的実在論とも、実用論的汎反意図主義の立場は折り合いをつけられるのではないかと思います。いや、私が不勉強なだけで、このあたりの議論は、心の哲学の分野で盛んにされているはずですね。おそらくは「実用論的汎反意図主義」についても、すでに別の名前が与えられていることでしょう。また、グッドマンや野家啓一や中村三春などが、おそらくこの立場を擁護してくれているはずです。
 なお、中村三春の『フィクションの機構 (未発選書 (第1巻))』については以下のサイトが参考になると思います:
http://www-h.yamagata-u.ac.jp/~miharu/Fiction/index.htm

結論

 今回の応答を再構成すれば、

  • 「反駁(2)」での例が言語ではなくて似顔絵であることに難点はないが、そのための議論は必要であった。
  • 発話レベルにおいて、現実の意図と虚構の意図との区別は恣意的にしかできず、またそうであってよい。

となります。


 以上、文学テクストの解釈に作者の意図の想定が不要と言えるかどうかについて、optical_frogさんからのご指摘に多大な示唆をいただきながら、再検討してみました。私の結論は前記事と変わっておらず、またoptical_frogさんの結論とも一致しています。しかし、ご指摘を通じて、反意図主義者を擁護する論証は一段と堅牢なものになったと思います。ありがとうございます。

*1:英語だとsense

*2:英語だとmeaningかreference

*3:あるいは、用語理解の失敗により反論が失敗していたとしても。