あなたのkugyoを埋葬する

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あのフォーメーションは……サールのテリトリー!

optical_frogさんへの再応答:なぜ他者の意図(意識)は常に虚構(見なし)なのか - kugyoを埋葬する
 この記事、後半はどうも釈迦に説法のケがあるように思えてきました。
 他人の心の問題は、心の哲学の問題であり、ということは、ジョン・R・サール先生の専門領域のひとつです。そしてサール先生はid:optical_frogさんの専門領域のひとつではないでしょうか。
 いまサール先生の文献が手元に『マインド―心の哲学』しかないので、そこから他人の心の問題について触れたところを探すと、pp.35-38が見当たります。そこで触れられているトピックは「類推論法」と独我論の3段階とです。


 「類推論法」については、私が「人間原理」で扱った内容の強いバージョンだと考えることができます。

 自分の心的状態との類推によって、他人の心的状態を推測できると考えられるかもしれない。ちょうど自分自身について刺激の入力や内部の心的状態と外部にあらわれるふるまいの相関関係を観察し、それを相手の場合に当てはめるように。
『マインド』p.36

 で、この論法は、「推論に基づく知識」を得ようとするので、「その推論を検証するための独立した方法」がない他人の心の問題についてはダメだ、とサール先生は言っているわけですが、正当化された真なる信念としての知識を得ようとするのではなくて、他人の心の問題についてどう考えるのが合理的であるかならば、私の提示した「人間原理」(失敗していますが)でよいはずです。


 次に独我論の3段階ですが、

  • もっとも極端な形式。「私の心的状態のほかに世界にはなにも存在しない」
  • 認識論的独我論。「他人もひょっとしたら心的状態をもっているかもしれないが、それを確かめることはできない」
  • 「他人も心的状態をもっているが、それが私の心的状態のようなものであるかはわからない」

が挙げられています。私の立場は2つめの認識論的独我論ですね。
 しかし、じつは認識論的独我論をとる必要はないかもしれないという気がしてきました……これについては、また考えをまとめてから述べようと思います。


 なお、

ちなみに、現状、心の哲学が問題にしているのは、こうした他者の意識の問題ではなく、“私”の意識の問題だと言えると思います。
(中略)
もちろん、私は心の哲学の専門家ではないので、このまとめが当たっているかどうかはわかりません。『感情とクオリアの謎』を読んだ感想です。

という私の記述は、間違った推論をしています。だって、読んだ本が『感情とクオリアの謎』なのですから、そこで“私”の意識の問題が主に扱われるのはあたりまえですよね*1。選択効果を忘れてしまった例と言えましょう。

*1:いちおう、帯には“「心の問題」に残された最後にして最大の謎に挑む!”とありますが。