あなたのkugyoを埋葬する

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穴と境界とスイミーと

 2ちゃんねるでもオススメの『穴と境界―存在論的探究 (現代哲学への招待)』読了。各章とも、議論が煮詰まってくる*1手前ぐらいまでは非常に読みやすい。著者の自説の検討に入ると少し読ませる速度が落ちるけど、予備知識が必要で投げ出さざるをえないタイプの文章ではない。私なんぞが言うのもおこがましいけど、よい研究者さんであると思う。
 しかし、うーん、こんなに簡単に、中くらいのものの存在論にコミットしていいのだろうか。


 以前に学会にもぐりこんで存在者に関する不用意な発言をしたことは、古い記事に書いたとおりだけど(講演「世界の中に人を位置づける」に行ってきた - kugyoを埋葬する)、このとき、“静けさ”は存在者ではなく性質であろう、と考えていた。たぶん、穴や静寂といったものは、何か別の存在者に依存するものである以上、少なくともまともな存在者とはいえないはず、と軽く考えていたはずだ。ところでこういう考えかたは、『穴と境界』中では「属性主義(attributism)」と呼ばれ、批判されるのだが、その批判がうまくいかない気がしたので、少し考えてみよう(私のこの再批判はけっきょく行き詰まるのだが)。


 批判の骨子はこうである。穴を物体の性質であると考え、「このチーズには3つ穴があいている」を「このチーズはみつ穿ちされている」と言い換えることにする。しかし我々は、こびとがドリルでチーズに1回ずつ穿っていく現場を見たわけではないのだから、穿ちの回数を数えることはできない*2。したがって、「みつ穿ちされている」「じゅう穿ちされている」「ひゃく穿ちされている」などの無限の穴あき形状の用語を、「赤い」「青い」といった用語同様に習得しなくてはならないことになる。さもなければ、穿たれの回数=穴の個数を数えて「3個穿たれている」と言うことになり、数の概念に訴えるので用語の習得問題は解消されるが、かわりに穴という個体の実在を認めてしまうことになるからである。


 さあ、こうして加地(現実の哲学者)とバーグル(架空の哲学者)とは、穴の実在を認めるか、無限の用語習得時間と無限の想像力とを準備するか、選べ、というわけだが、この議論は成功しているだろうか。
 穴のかわりに角について考えてみたらどうなるだろうか(とりあえず平面角でよいだろう)。角を図形の性質だと考える。加地の議論を同様に適用して、角を数えることを考える。確かにふつう、たとえば四角形なら、その角は4つあると言うだろう。しかし、別に角という実在を認めなくても、もとの四角形という図形の性質に角を還元することができそうである。
 ん……待てよ。角も図形の1種か。角というのは、1点で交わる2つの半直線から成る図形のはずだな。ということは、四角形の実在を認めるなら、角の実在をも認めなくてはならんのか。うーん、失敗、この路線で行くなら、何か別の例が必要だ。
 そもそも、数学的対象を例に出して存在論を議論するのは、危ないことだな。ストップだ。3次元の物体の立体角を考えてもだめだろう。


 なるほどね、とつぜん中くらいのものの存在論と言われると受け入れるのに躊躇するが、たとえばただ4本の線分を認めればいいだけのところに四角形なるよけいなものまで認めた時点で、中くらいのものの存在論に片足を突っ込んでいることになるわけか。
 うむ、しかしそれでは、中くらいのものの存在論というのは、認識論の範疇である気がするな。いや、こういう言いかたをすると、認識論という学をちゃんと理解していないことがばれてしまう。慎重を期して言うならば、ものそれ自体が我々にとってどのような表れかたをしているかを考えるのは、知識や真理の問題を扱う認識論の範疇というよりは、なお存在論の範疇であるだろう。と、いうのは存在論に寄りすぎた捉えかたなのかな。


 ちょっと考え直す。仮に中くらいのものの存在論を加地が議論しているとしても、議論の途中にミクロレベルの存在者が持ち出されていないかは気になる。たとえば境界に関する議論をするとき、加地は点とか面とかを持ち出すわけだが、これはミクロレベルの存在者ではなく中間レベルの存在者なのだろうか。
 あと、加地は“連結”と“接触”とを分けたがっているが、これはどうだろう。1つ(連結)とか2つ(接触)とかいうのは数えかたの問題であって、メレオロジカルな和を認めてしまえばあまり問題にならないのではないか。あるいは、そもそもあるものらが連結しているか接触しているかは、それらの物理的性質によるのではなかろうか。1点を共有している球状の2物体*3を引き離すエネルギーがずいぶん小さくてすむが、ブロックはそうでない、というだけではないのか。うーん、磁石から砂鉄を引き離すのとスポンジをちぎるのとを考えると、必要なエネルギーだけでは議論が足りないから、もとに戻すのに必要なエネルギーも考えればよいかもしれない。いい例が思いつかないが、試みにスイミーを考えてみよう*4。小魚がいっぱい集まって大きな魚Lのように見えるとき、その大きな魚Lを存在者として認めるとしよう。すると、L同様の大きな魚MがLとくっつくとき、LからMを引き離することは容易だが(全小魚に個別に命令を下せる装置を付けたと考えよ)、LとMとのくっつきは接触ではなく連結と見なされてしまうのではないだろうか。
 なお、大きな魚Lを存在者として認めないなら、どういうものが中間レベルの存在者として適切なのかをちゃんと議論する必要がある。


 などということは、何かを読み落としているか、あるいは、どこかの哲学学会誌での書評によって触れられていると思うのだけど、学会誌の書評ってどうやって検索したらいいんだろう?

*1:いまの国語辞典に載っている意味での「煮詰まる」ね。

*2:この記述に該当する箇所は『穴と境界』本文にないが、必要な前提だと思われる。

*3:くそっ、もっとマシな書き表し方があるはずだが、それは『穴と境界』を読んでくれ。

*4:ネタバレしてごめんね。