あなたのkugyoを埋葬する

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カ60 左隣のラスプーチン(委託),別冊BOLLARD TUNNEL(¥700)

第19回文学フリマ感想 Advent Calendar 2014 - Adventar,はじめました.この記事で19日め.17日めと18日めとはベントされた! いつ戻る? 戻らない!
私が文学フリマで買った本のリストはこちらです: 購入全誌感想(29評/30購入) - kugyoを埋葬する

カ60 左隣のラスプーチン(委託),*別冊BOLLARD TUNNEL*(¥700)

左隣のラスプーチン [第十九回文学フリマ・評論|文芸批評] - 文学フリマWebカタログ+エントリー

 〈iaku〉という団体の横山拓也さんという劇作家のかたを特集していて,戯曲を2本とロングインタビュー,それからそれを演じた役者のインタビュー,それに先輩劇作家のコメントも載った本.
「TUNNEL」カトリ企画@第二回文学フリマ大阪 - 文学フリマWebカタログ+エントリー
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 戯曲「人の気も知らないで」「流れんな」はどちらも一幕もので,複数の人物(ほぼ全員が出ずっぱり)の会話のなかでの対立を描いている.対立というか,登場しない人物の病状に関連するいろいろなトラブルについて,それぞれに違った考えを持っていて,またそれぞれが互いのことをどういう人物だと思っているかについてもズレがあって,そのズレが表面化して,たくさんしゃべることでちょっと変わる,という話.
 “人の気も知らないで”の役者は三人なのだけど,上記のようなことをやるためには,登場人物「綾」「長田」「心」(みなタウン誌を発行する会社の社員)の造形をするだけでなく,その三人が残りの2人をどういう人物だと思っているかについても造形する必要があって,これはむちゃくちゃたいへんな作業だ(合計で9人作る必要がある).人間どうしの関係は現実にはたしかにそういうものなのだけど,ふつうの作品ってえてしてそこらへんを飛ばしてしまって,読者に見える像が作中でも同様に見えている,もしくは読者には見えていない像は作中でもだれにも見えていない——いわゆる叙述トリックが作中人物に対してもトリックとして機能する場合——のようにしてしまう.まああとは狭い恋愛関係のような通りのいい矢印を使った人物相関図に全員を収めてしまうという手が使われることもあるよね.こういうことができる背景には,もちろん役者が実在して,その役者じしんの意見もあって,という制作手順のブーストもあるのだろうけど(そうやって作っているのだとインタビューにもあった),それぞれの人物がどういうきっかけで相手をどう見るようになったかをひとつずつ考え,しかもそれがひとつの作品としてまとまって見えるように配置する,というのはほんとうに難しい.書き割りでないリアルな人物造形というのは,人生経験がどうとかではなくて,こういう配慮,ある意味で計算できる配慮から生まれることだと私は思う.
 そして,劇評などでも言われているとおり,それらの人物が互いをどう見ているかをその場で開示していく流れがしっかりしていて,ある種の告白が行われるごとにそれまでの人物像が読者のなかでも変わるようになっている.会話劇なので,この告白もひとり語りの形ではなく,その場の人物(話題にされるひと,話題から遠ざけられるひと両方)による混ぜっ返しが入るのだけど,そういう混ぜっ返しが大好きな私がいちばん気に入ったのが,心によるこれ(p. 30).

心 え、私頭悪いですか? 本当に分かんないんですけど。

多くの場合,物語のなかで登場人物が分からないと発言したら,それは以下のような状況だ:

  • その人物は読者よりもにぶい.読者に対する答え合わせのために,つまり物語の都合で,分からないと発言して説明をうながす役割を担わされている.
  • その人物は単に納得がいっていないだけなのだが,拒絶の意志として分からないと発言している.読者もそういう心情を承知している.
  • 状況はその人物にとっても読者にとっても異常である.

しかしこの場合,読者は「綾」が直前で「オサダは、もうちょっとだけ筋通ってんねん」と言っているその内実に見当がつかないし,「心」はどう見ても本心から分からないと言っているのだし,そしてそのあとを読めばすぐわかるように,状況は決して異常ではない——会話のなかでほかの人物だけが察し合っていて自分だけ置いていかれるように感じるのは,現実にもよくあることだ(そしてその疑問を会話の流れのために保留してしまうことも).そして,読者は「心」がほんとうに話に置いていかれたのかどうか(自分が何か読み逃しているだけなのではないか)について確信が持てなくなっている.つまり,物語の要請で「心」が解説役の補佐としての役割におとしめられているのではなくて,いま「心」が物語にどういう役割を要請されているのか,そして読者はいまどういう情報を持っているはずなのか,一瞬だが迷いが生じるようになっているのだ.だからこそ,「え、私頭悪いですか?」が読者につよく響く.それは読者がいつも保留してしまう小さな疑問に対する抵抗なのだ.

 次の“流れんな”では人物は「睦美」「司」「駒田」「サツキ」「翔」の5人に増え,さすがに20人ぶんの人物像をつくりあげるのは困難だったのか,前述したような恋愛関係という分かりやすい人間関係の矢印の導入や,唐突に影が薄くなる「翔」などやや違和感もあるのだが,同様に人物どうしが互いに互いをどういう人物だと考えているかを言い合い・言わせ合う.p. 92の「司 無理無理。最後まで言いや。」などが代表的だが,ここでは5人は最後には思いの丈を最後まで言ってしまう.個人的には,こちらの作品にあるような思いの丈のぶつけあいを,特に出生前診断についてときに蒸し返すような形で交わされる「睦美」「サツキ」「翔」の会話を胸がつぶれるような思いで読んだのだけど,このすばらしい作品にひとつだけ不満があるとしたら,それは5人が思いの丈を最後まで言えてしまうという,そのことだろう.
 およそ演劇というものには役者がいて,役者は途中で舞台から出ていってしまったりしないから,人物どうしの会話がはじまったら,たとえ多少の不満がそこで表明されようとも,人物は逆上して会話を離れて二度と帰ってこないということはなく,困難を切り抜ける形で会話は最後まで遂行される.この“流れんな”でもp. 99で忘れものとして置いていかれる「駒田」のカバンがあからさまに示しているように,オチがつくまでには役者は——人物は戻ってきて,ちゃんと話の終わりに参与するのだ.
 でも現実はそうではない.会話の途中でひとはほとんど会話と無関係な理由で退場するし,不満があれば疑問を残したままでも話題を打ち切るし,そういう話題はその場ではなかなか復活することはない.私たちは舞台のうえに集められた役者ではないから,公演時間いっぱいまで会話をつづける理由も,舞台のうえに立っている理由もとくにない.会話がうまく噛み合うことじたいがめったにないし,そもそも発言が組み立ってひとつの会話になることも珍しい.無視される発言も多い,それは茶化しがスルーされるというだけでなく,ドラマを含んでいそうな重大な発言だってそうで,その理由はたとえば声がかすれてしまってよく聞こえなかったとか留保が多すぎて数秒以内に意味がとれなかったとかだったりもする.陳腐な言いかたを含むけど,だからこそ,相手がどういう文を使って発話するかというクセをある程度知った関係こそが,会話を楽しむうえでだいじなのだろう.
 もちろん,なかなか噛み合わないものが噛み合った瞬間を切り取った美しい構築物こそが戯曲なのだろうし,その美しさが見たくて私たちは劇場に足を運ぶ.でも,物語のうえでどれだけ対立しても舞台のうえにいてその場を共有していることには違いない戯曲の人物たちを見ると,ちょっとだけ,うらやましい世界で生きているな,と,役者と人物との区別を一瞬揺らがせて思ってしまうのだ.