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キ10 アニメクリティーク刊行会,アニメクリティークvol.4.0 戦争とアイドル/境界線上の〈身体〉(¥500)

第21回文学フリマ感想 Advent Calendar 2015 - Adventar,はじめました.この記事で18日め.
私が第21回文学フリマ東京で買った本のリストはこちらです: 購入全誌感想(23評/23冊) - kugyoを埋葬する

キ10 アニメクリティーク刊行会,アニメクリティークvol.4.0 戦争とアイドル/境界線上の〈身体〉(¥500)

アニメクリティーク刊行会 [第二十一回文学フリマ東京・評論|アニメ・マンガ・ゲーム] - 文学フリマWebカタログ+エントリー
「アニメクリティークvol.4.0 戦争とアイドル/境界線上の〈身体〉」アニメクリティーク刊行会@第二十一回文学フリマ東京 - 文学フリマWebカタログ+エントリー
 アニメを通じて思想を1つつくるというのは本質的に厄介な課題で,アニメを論じるうえで牽強付会がすぎればそれは欠点になるし,つくった思想のできが悪ければそれも欠点になるし,アニメを論じた箇所が思想と特にマッチしていなければそれも欠点になる.そういうわけで,思想をやめて作品論に特化した,羽海野,“白の記憶と冴えない彼女と―丸戸史明の描く虚像が地に落ち天に上るまで”や,あんすこむたん,“『ゆゆゆ』は何を残したか―語り直される歴史の「継承」”が相対的におもしろく納得いく論考になっているのは,ある意味でしかたないことではある.
 いちばん文句言いたいのは,すぱんくtheはにー,“Dance of the Dead——自然主義的フィクショナリズムと、殺せる身体の行方”で,実写みたいな滑らかさをアニメに導入した2つの例である「ハルヒダンス」と「ロトスコープ」とを比較した前半部分はすごくおもしろいのに,アニメに描かれるひとの身体がそれじたいはコマが静止しているために“死んだ”と言われる比喩を真に受けてしまい,それを“生き返らせる”とか“死なせる”とかいうことを重大そうに扱ってしまっていてへんだ.それはさきの“死んだ”の対義語であるのなら単に動かすということになるだけだし,さもなければ同じ単語でべつの意味を表しているだけで議論がごっちゃになっている.あと,タイトルにもある「自然主義的フィクショナリズム」をField, Science Without Numbers(1980)からとったと書いているがおそらくWikipediaしか見ておらず,その証拠にWikipediaにある「私たちが数学を行うとき、万が一、数が存在するならば、私たちは自分たちがある種の物語を語っているにすぎない」を読み間違って,「私たちが数学を行うとき、万が一、数が存在するならば、私たちは自分たちがある種の物語を語っているにすぎない」と解釈してしまっている.Wikipediaの訳もわかりづらくはあるのだが,こうして「と」を抜かしたかたちに読み間違った場合,フィクショナリズムのキモである“if 数が存在するならば X”という文のパラフレーズに登場するオペレータを,理論が採用する前提と読んでしまうことになるので,ほとんど逆のことを言ってしまうことになるのだ.まあ芸術におけるリアリズムというのはそもそも写実主義(勧善懲悪とか不自然だよね,とわれわれが思うときに拠っているそれ)のことであって実在論とはぜんぜん違うので,ここでは「フィクショナリズム」のかわりに,たとえば“ご都合主義”みたいなことばを採用したほうがいいのではないか.ディティールを書きこみすぎたらご都合主義であることが露呈してしまうことがあるよ,ということで論旨ともすなおに噛み合うだろうし.
 ほか,tacker10,“風穴を開ける―『ガッチャマンクラウズ』シリーズと、アニメの「再起動(リ・ブート)」”は,フキダシが実在する世界を描いた作品だけに,アニメのなかで描かれる物語とアニメ技法とを接続した論じかたがおもしろく,作品論としてバランスがよかったと思う.