"掌中の涅槃"その2
"掌中の涅槃"は、薄い1冊で1篇の小説。
そうこうする内に、朗読師と雨に濡れた狗の臭いのする少年は、幾つかの未来の死を乗り越え、如何なる他人も羨む夫婦となった。朗読師は妊娠していた。
という感じで、途中までめちゃくちゃが書いてあるようにしか見えず、そのあいだに上記のように福永信のモロパクリをやってしまうのは危険だと思うんだけど、とりあえず読み進めると、どうやら1つの文のなかで過去・未来を自在に行き来している、あるいは多数の世界を描写している、というのがわかってくる(たとえば人間の滅亡の有無などから)。
で、一般的に、こういうことをしようとすると、じゃあそうした多数の世界を特権的に描写できる位置ってなによ? という話になって、それは読者です/作者です、というパターンになるんだが、この小説ではいちおうそうした小説外部の存在を持ち出さずにやっていくために、描かれる世界のほうを特殊なものにしている。しかし、そうするとまた別な問題が生じる。そんな世界を描かれても、読者の現実認識についてはほとんどゆらぎを起こせないのだ。ファンタジーとして、まさに読みものとして終わってしまい、本を閉じたあとではなにも残らない、ということになる。*1
それも含めて"掌中の涅槃"なのかもしれない。掌中から追い出されてしまったら、そこは涅槃でなくなる。
紙魚がたくさん現れるクライマックスでは、文字をにじませることでそれを表現しているんだが、これ、じっさいにボロボロになった紙を使ってくれたらよかったと思うなあ。値段があがってもいいからやってくれないだろうか、というか、そういうことをやるのが好きなひとなんだろうと(ブースを見て)思ったので。
*1:その点、哲学は、読みものとして終わるか終わらないかのぎりぎりのラインにあるのがよいよね。