あなたのkugyoを埋葬する

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きょキャ1-3 われわれになにができるのか

虚構キャラクタに対する罪
第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか
第3項 われわれになにができるのか


 こういうわけで、次には(3)「虚構世界で起きることに、われわれは影響を及ぼせるのか?」という問いを考えよう。
 まず、虚構世界でのできごととは、それが現実世界で描写されるまでは存在しないものである、としてみよう。いわば“虚構描写依存説”だ(逆の場合は“虚構独立説”だろうか)。もしそうだとすれば、現実世界での描写(現実世界の住人の記憶も含む)がなくなれば、当該の虚構世界でのできごと(この場合は殺人)もなくなる、ということになろう。しかし、そこで消えるのはできごとだけであろうか? 殺人が行われていたもとの虚構世界aと、書き換えられたために殺人が起きない新たな虚構世界 とは、じつはまったくの別物であるかもしれない。『ハックルベリー・フィンの冒険』の登場人物ハックが指し示す人物は、書き換え前のaと書き換え後のa'とで異なっているかもしれないのだ。
もしそうなら、われわれは現実世界での描写を変更することで、もとの虚構世界aを殺人ごと抹消してしまったことになる。われわれは世界を消滅させることにどのような道徳観念を当てはめればよいのか知らないけれども、少なくともそれに付随して虚構世界の住人をも抹消してしまったのだから、大量殺戮に相当することを行っていることになるだろう。これでは本末転倒である。
 では、現実世界の描写を変更しても、変更されるのはできごとだけであり、その虚構世界aじたいは抹消などされない、と考えればよいのか? じつはこの考えかたは非常な無理を犯している。極端な例を考えてみよう。小説『ハックルベリー・フィンの冒険』のすべての語句を書き換えて、登場人物も舞台も時代背景もまったくの別物にしてしまったとする(新しいタイトルは『村上ハルキの憂鬱』としておこう)。変更されるのができごとだけだとすると、このようにどれほど小説を書き換えようと、書き換えたもとの小説があるのなら、それは同じ虚構世界でのできごとを描いたものである、ということが帰結する。しかし、『村上ハルキの憂鬱』が、『ハックルベリー・フィンの冒険』を修正液で消したあとの紙にではなく、まっさらな紙に書かれていたなら、それは『ハックルベリー・フィンの冒険』とは別の虚構世界を描いていたことになったはずである。その描写が記されたものの材質によって虚構世界のありかたが変わるとは、どうにも奇妙ではないだろうか。あるいは、こうした書き換えを繰り返し、同じ紙のうえにさまざまな小説を書いては消し、書いては消し……した場合、すべての小説が同じ虚構世界を描いていることになる、ということにもなってしまう。
 また、虚構世界は現実における描写とは独立に存在しており、現実における描写はすでに存在しているある世界を発見しているだけだ、と考える(“虚構独立説”)ならば、われわれにはその虚構世界に手出しする方法がない。現実における描写を変更しても、新たな世界が発見されたことになるだけであって、もとの(殺人が行われた)世界では、あいかわらず殺人が起こっているのである。
 以上から、(3)「虚構世界で起きることに、われわれは影響を及ぼせるのか?」については、(2)とも重ね合わせて次のように(ややずれた)答えを出しておくことにしよう。
1. 虚構世界は現実に描写されるまで存在しない(影響を及ぼせる)とすれば、作品改変に道徳的有効性はないか、またはすべての小説は1つの虚構世界を描いている。
2. 虚構世界は現実における描写とは独立に存在する(影響を及ぼせない)とすれば、作品改変に道徳的有効性はない。
 1.のかなり荒唐無稽な帰結を受け入れることは難しい。よってここでは、2.を結論として受け入れよう。