あなたのkugyoを埋葬する

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きょキャ1-5 われわれは勝手すぎるのか

虚構キャラクタに対する罪
第1節 虚構キャラクタに責任を負うべきか
第5項 われわれは勝手すぎるのか


 われわれは、この勉強会が始まる前には、虚構キャラクタに権利を認めてこなかった。そこでここまでの議論では、なんとかして虚構キャラクタに権利を認めてやろう、という"虚構解放論者"の立場が、いったい合理的に正当化できるものだろうか、という点を検討してきた。
 じつは、"虚構解放論者"の主張には1つ隠れた前提がある。つまり、「なにに対してであれ、それが合理的に正当化できるならば、なにも権利を認めないよりは、何らかの権利を認めてやったほうが、道徳的によい」というものだ。そうでなければ、わざわざ既存の社会通念をひっくり返してまで虚構キャラクタに権利を認めようという動機が薄れるだろう。しかし、この前提は正しいだろうか。すなわち、(5)「われわれは他者に権利を認めてよいか?」、を考えてみよう。
 なんであれ、権利を認める、という言い方は、すでに権利を認める力(これも1つの権利であろう)を持っている者が、権利を持たない者に対して行う言い方である。ということは、こうした権利の認定行為は、強者の権利概念を弱者に押し付けていることになる。これは1つの暴力ではないか?
 こうした議論はむりな言いがかりではなく、フェミニズムやポスト・コロニアリズムの分野では、じっさいにこのような問題が検討されている。たとえば、フェミニストイスラム文化圏の抑圧された女性に権利を認めると言うとき、認めているフェミニストはその女性たちに西洋近代的な権利を押し付けていることになり、それはイスラム文化の破壊につながるのではないか、というぐあいである。フェミニストがしてよいのは、「こういう権利というものをあなたがたも持つことができるよ」という可能性を示し、また自らで声をあげはじめた者に協力するところまでであって、「女性だからとにかく解放すればよい」という形で積極的に抵抗運動をすることは、文化破壊やむしろ"女"という概念の強化につながってしまいかねない、というのだ。*1
 こうした現代思想的な慎重さにはもっともな面もあり、無視してよい議論ではない。しかし、ここでは2種類の返答を使って、"虚構解放論者"の前提を擁護することができる。
 第1に、「相手に権利を押し付けない」ことをよしとするのは、すでに相手に「権利を押し付けられない権利」を認めているからではないか。だとすれば、われわれは上記の懸念によって、権利を押し付けることも押し付けないこともできなくなってしまう。そのような信念は間違っているだろう、というものだ。
 ただし、これに対しては、相手に「権利を押し付けられない権利」を認めているから相手に権利を押し付けないのではなく、文化的帝国主義に加担することがいやだから押し付けないでいるのだ、という再反論がありうる。抑圧されている当の相手のことなど問題ではなく、もっと大きな状況を改善したいのだ、というわけだ。そこで、"虚構解放論者"擁護のためには、次の第2の反論を組み合わせておくことが有効だろう。
 第2の返答では、その相手が「権利がほしい」と自ら声をあげた、まさにその瞬間のことを考える。この状況でなおも彼ら に協力しないのは、上記のような懸念を持つ者たちにとっても道徳に反することであろう。しかし、この段階では、まだ相手に権利を認めていないことに注意しよう。
 ここで奇妙なことが起こる。「権利がほしい」という発話*2は、通常、もちろん「権利がほしい」という意味に解釈される。しかし、彼らが「権利がほしい」と言ったからといって、それが「権利がほしい」ということを意味するということが、なぜ保証されるのだろうか?
 同型の問題は、権利ということを考慮しなくても発生する。あなたが「これは1匹のカバです」 と発話したからといって、私はなぜその発話が「これは1匹のカバです」ということを意味すると考えるのだろうか?
 このような問題には、哲学者ウィトゲンシュタインが使ったことで有名な「言語ゲーム」という比喩に則って返答することができる。言語とは、「これは1匹のカバです」という発話が「これは1匹のカバです」ということを意味する、というようなルールを持ったゲームなのである。われわれはそのゲームの参加者であり、相手も自分と同じルールに従っているものと判断してゲームをするのだ。
 さて、こうした言語観と、先に述べた懸念とを組み合わせると、どういうことになるか。彼らが「権利がほしい」と発話したとき、それをわれわれが「権利がほしい」という意味だと解釈するのは、彼らに"言語ゲームへの参加権"を認めているからではないか。ここには、彼らがわれわれのルールに従いうる者である、という前提がある。権利の押し付けは、対話がはじまったその瞬間に起こるのである。*3
 すると、相手への権利の押し付けをいったん拒否したならば、彼らとは対話することすらできない、ということが帰結する。こうなると、彼らに権利を認める機会は訪れない。それどころか、この議論は異なる文化的集団間の場合だけでなく、異なる2者間の場合にも拡張できるので、われわれはそもそも他者に権利を認めることがまったく許されない、ということになる。これはもはや権利とは呼べまい。
 以上2点の議論から、"虚構実在論者"やピーター・シンガーが依拠していると思われる前提は、じゅうぶん擁護されたと思う。(5)「われわれは他者に権利を認めてよいか?」については、肯定的に返答が与えられた。

*1:このへんの理解はかなり怪しい。より進んだ内容に興味がある場合、ポスト・コロニアリズムについてはたとえばHage, 1998を参照。(和訳もある。ガッサン・ハージ(著)、保苅実・塩原良和(訳)、ホワイト・ネイション-ネオ・ナショナリズム批判平凡社、2003)。)

*2:わかりにくければ発話については「ケンリガホシイ」という発話だと考えよ

*3:以上の議論は、フェミニストが現地語をしゃべれば解決する、というようなものではまったくないことに注意。「1匹のカバ」の例では、私もあなたも日本語で(正確には、日本語と解釈されるような音声で)発話しているが、それでも問題は起こっている。