あなたのkugyoを埋葬する

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optical_frogさんへの再応答:なぜ他者の意図(意識)は常に虚構(見なし)なのか

optical_frogさんへの応答:実用論的汎反意図主義(汎テクスト論)の立場から - kugyoを埋葬する
 上記の記事について、id:optical_frogさんよりお返事をいただきました。以下の記事です:
kugyoさんの「応答」への応答 - left over junk


 このような議論がブログ間で成立しているのはとてもうれしいことです。optical_frogさんは現在もご活躍中の研究者の方とお見受けしますが、そうした方を相手に私が議論できるというのは私にとってありがたいことですし、この議論が虚構論を含む何らかの学に貢献するということにでもなれば、さらに望外の幸運というべきでしょう。
 私の拙い論考に対し、2度も反応してくださったoptical_frogさんの懐の広さと、そもそも議論を成立させてくれている(分析)哲学の伝統とに、特に感謝を示したいと思います*1。おかげさまで、ずいぶんと思考が明晰になりました。ありがとうございます。

本記事の構成

 この記事がずいぶん長くなってしまったので、小見出しのリストをここに掲載しておきます。「まとめ1」までがoptical_frogさんの議論への直接の応答で、その後の議論は補足的なものです。

  • 争点の確認
  • (2)への反論 コンパニョンへの論駁のために
  • (1)への反論 意図が不在である事態などない(追記しました 2008/7/8)
  • まとめ1 実用論的汎反意図主義の維持(追記しました 2008/7/8)
  • 他者の意識の虚構性と極端な懐疑論との違い
  • 他者の意識の実在を擁護する議論1 奇跡論法
  • 他者の意識の実在を擁護する議論2 人間原理
  • 他者の意識の実在を擁護する議論3 実用説
  • まとめ2 経験的蓋然性を求めても、他者の意識は虚構でしかない
  • まとめ3 今後の展望
  • リンク(いままでの議論の流れ)

争点の確認

 これまでの議論で、争点は「発話の意図は、つねに虚構のものである」という私の主張の意義の有無に絞られてきたように思います。
 optical_frogさんに要約していただいた文を転記しますと、

応答 (2):(a)意図の帰属はつねに虚構であり,かつ,(b)恣意的(べつに人間ならぬ「キーボード」や「舌」に帰属させてもいい);(c)ただ,実際には「プラグマティックな原因」により(特定の)人間に帰属させている.

という主張が問題になっています。この主張について、optical_frogさんは、

  • (1)発語内の意図が不在である場合と、発語内の意図が存在するが帰属は恣意的でよい場合とが区別されていない
  • (2)発語内意図が存在するとして、その意図を何に帰属することも可能であるというのは、有意義な主張ではない(これにより(a)と(b)とがトリヴィアルな主張になる)

という2点に分けて反論なさっています。
 私はこの2点に対して、(1)については意図の不在/存在の区別そのものが虚構であることを示すことで、また(2)についてはそもそも私が反駁したかった主張を検討することで、それぞれ反論を試みたいと思います。

(2)への反論 コンパニョンへの論駁のために

 先に(2)について検討します。
 私のそもそもの目的は、アントワーヌ・コンパニョンの主張、私のまとめによれば「テクストが作者の意図によらないものなら、首尾一貫性や複雑さという基準に意味はない。」という主張を反駁することでした。コンパニョンは、猿がタイプした詩篇のような、意図(常識的な意味での意図)によらずに生成されたテクストを例にあげ、そのようなテクストを解釈することはできない、と述べたのでした*2
 もちろんコンパニョンは、その意図を持った人間によって生成されたテクストであれば、それを解釈することは可能であると考えています。ということは、コンパニョンは、発語内意図は人間にしか帰属できない、と考えていることになります。逆に言えば、猿とか、ランダムに文字列を生成する装置とかによって生成されたテクストは、意図が帰属できないがゆえに解釈できない、意図を帰属させることは不可能だ、と考えているわけです。
 このコンパニョンの主張に対して反駁するには、意図を何に帰属させることも可能であるとさえ述べればよいはずです。コンパニョンの主張自体が論理的な可能性について述べているのですから、
私の反駁もまた論理的な可能性についてさえ言えれば、それでよいのですし、またそれを言わなければ、コンパニョンの主張に反駁したことにはなりません。
 したがって、意図を何に帰属させてもよい(意図の虚構性、恣意性)という私の主張は、トリヴィアルで意義のない主張ではありません。このことがちゃんと成立していることを示し、またそれを受け入れたうえでも我々はふつうの生活を営むことができる(実用論的な理由によってできる)ということを示すことが、コンパニョンへの反駁には必要だったのです。

(1)への反論 意図が不在である事態などない

 次に(1)を検討しましょう。
 optical_frogさんは、以下の区別をすべきだと主張されています:

  • (a) 意図が存在しないので帰属の問題が生じていない(意図の不在)
  • (b) 意図は存在するが誰に帰属させてもかまわない(帰属の恣意性)

しかし、帰属の恣意性を認めながら、意図の存在/不在の区別をすることができるというのは、矛盾した考えのように思われます。なお、(a)においても、帰属の恣意性(意図があるとすれば、だれに帰属させてもよい)は保たれていることに注意しておきます。
 (a)について、optical_frogさんは、私の思考実験(偶然に生成された文字列)を例に出して、次のように述べておられます:

「私たちはコッペパンがほしい」という文字列を誰かに帰属させなくてかまわないのは,そもそも状況設定により発語内行為がなされていないからです.読めば文としての意味はわかりますが,発話としては無意味です.

しかし、この「状況設定により発語内行為がされていない」というのは、どうしたらわかるのでしょうか? optical_frogさんは、問題の文字列を発語行為として受け取ってみて、意図を持っている可能性があるひとに聞いてみればよいと考えていらっしゃるようです。しかし、我々はすでに、意図を何に帰属させてもかまわないという点について、合意を得ていたはずでした。ペンキや人々の集団についても、それに意図を帰属できないとする理由はありません。となると、「状況設定により発語内行為がされていない」かどうかは、ペンキや人々の集団についても聞いてみなければ、確かめることができないのです。ところが、もちろんペンキに意図の有無を聞くことはできませんし、人々の集団についても同様です。集団を構成する個々人に意図の有無を聞くことはできるかもしれませんが、その全員がその意図を持たなかったからといって、その集団も意図を持たないとすることは、合成の誤謬を犯している恐れがあります。ふつう我々は、集団の意図と言うとき、それを構成する個々人の意図の総体を考えていますが、集団それ自体には、個々人とは別の意図があるかもしれません。
 こう考えると、次のことがわかります:

(帰属の恣意性からの帰結)
「状況設定により発語内行為がされていない」かどうか、意図が存在するかしないかは、何に意図を帰属させてもよいという前提のもとでは、確定できない。

実用的には、ある程度のひとに聞いてみて、彼らに意図がなかったことがわかれば、発語内行為がされていなかったのだと判断して問題はないでしょう。しかし、意図が存在しないことを言うためには、それでは不十分です。
 意図が存在するかしないかが確定できないとすれば、壁に偶然書かれた「私たちはコッペパンがほしい」を、“なにものか”の発語内行為がなされた例として考えることができます。すなわち、偶然に書かれた文字列であっても、それを解釈することができるというわけです。
 なお、この“なにものか”として、ペンキや集団を設定することはできそうですが、監督者や無学な盗賊といったひとを設定することは、一見難しく思えます。彼らはその意図がなかったことを宣言しうるからです。しかし、ペンキについて意図の有無を確認することができないというのは、(ここまでの議論では)概念的に不可能であるというのではなく、実際問題としてできない、ということでした。また、監督者のようなひとびとが実際に意図を持っているかどうかについても、じつは確認することができるわけではなく、実際問題として確認したとみなしているだけです(監督者が哲学的ゾンビだったら? あるいはうそをついていたら?)。とすれば、“なにものか”として監督者のようなひとびとを設定することも、やはり可能であると言えます。ただし監督者自身にとっては、自分がそのような意図を持っていないことを確認できるので、「私たちはコッペパンがほしい」を自身の発語内行為であると考えることはできないでしょう(自身の記憶を疑うことによって可能となるかもしれませんが、それは別の話です)。
 上記の議論は、optical_frogさんの提出したフランス語の勉強の例(外国語の勉強の例は、言語哲学においては由緒正しい例ですよね)においても同様に成り立ちます。フランス語の文をつづっている「ぼく」が発語内行為を意図していないとしても、この事例における意図の不在が導けるわけではありません。私の提出した例においては、知識の程度に違いがあるさまざまな人々が登場し、しかも彼ら全員が意図を持っていない場合でも、発話主体を恣意的に設定することで、発語内意図を想定することができ、したがって「コッペパンがほしい」という文をいかようにも解釈することができます。もちろんその解釈の結果は、“コッペパンがほしい”という(なにものかの)要求であってもいいし、“彼ら作業者は性的欲求不満に苛まれている”という(作業者たちの集団無意識による)告発であってもかまいません。
 意図の帰属の恣意性を認めるかぎり、意図の不在を言うことはできません。そして、意図の帰属の恣意性を認めることからは、コンパニョンの提示したタイプする猿の例、私の提示した壁の文の例、optical_frogさんの提示した外国語の勉強の例、その他いかなる例においても、「実在する作者の意図」のみを考慮すべき理由はないことが帰結します。「実在する作者の意図」に関係なく、ということは、「実在する作者の意図」がなくても、恣意的に設定した発話主体(虚構の語り手)に意図を帰属させることによって、文を(文意味のみならず、言明意味の段階において)解釈することができるということです。
 この帰結は、optical_frogさんの主張とほぼ同じです:

文学にかぎらず発話全般について言うと,ごっこあそびなどのように話し手/語り手を虚構とみなせるケースもある.でも,虚構の話し手/語り手のアイデンティティが発話理解に無関係であり,実際的な水準において恣意的であってかまわないというわけではない.

 「実際的な水準において」は、実用論的汎反意図主義者は、実用論的であるがゆえに、社会通念上適切な相手に意図を帰属させることを選ぶでしょう。文学研究においても、もしそうしたいなら、文学史的な条件を考慮することができます。この意味で、実用論的汎反意図主義は、単なるテクスト論への反駁にすらなっています。なおこの記述は、optical_frogさんの記事「考え直さなきゃ - left over junk」への応答となっています。実用論的汎反意図主義者は、もしそうしたければ、テクスト中のある言い回しがシェイクスピアの時代にどう聞こえたかを考慮してテクストを解釈することもできるのです。


(追記部分 2008/7/8*3)
 ところで、「実用論的汎反意図主義」というネーミングには、少し誤解を招く余地があるかもしれません。optical_frogさんが当初からご指摘*4されているとおり、なんの意図も設定せずにテクストを(テクストの発話意味を)解釈することはできません(虚構の語り手 (narrator) を設定する必要がある)。
 もちろん、反意図主義が相手にしていた意図主義というのは、コンパニョンの用語であり、

  • “作者の意図を解釈に不可欠な要素として用いよ”

というものですから、反意図主義のほうは、

  • “作者の意図を解釈に不可欠な要素として用いる必要はない(用いてもよい)”

というものであっていいはずですが、コンパニョンは反意図主義を、作者の意図を解釈に用いてはならない、というものだと考えているふしがあります。
 正確を期すため、実用論的汎反意図主義者は、以下のようなことができることに、再度注意しておきます:

すなわち、そうしたければ反意図主義者は、ある発話の意図を恣意的な対象に帰属させることができますし、虚構的な対象に帰属させてもかまいません(巨大な文字列の思考実験を思い出してください)。


optical_frogさんへの応答:実用論的汎反意図主義(汎テクスト論)の立場から - kugyoを埋葬する

 ただし、実用論的汎反意図主義者といえど、なんの意図も設定せずに解釈することはできません。
(追記ここまで)


まとめ1 実用論的汎反意図主義の維持

 以上(1)(2)の検討から、私はoptical_frogさんによる「実用論的汎反意図主義」の改訂を受け入れることができません。意図の帰属の恣意性を認めるならば、すべての発話は発語内効力をもつのであり、したがって「実用論的汎反意図主義」(revised)は「実用論的汎反意図主義」と同じことになります。またコンパニョンの主張に論駁するためには、「実用論的汎反意図主義」(revised + revised)のような削除は受け入れられません。私の主張を成立させるためには、そのままの形での「実用論的汎反意図主義」が必要なのです。


 さて、どうやら話は、またもや意図の虚構性、そして恣意性に戻ってきたようです。もちろんここでも、optical_frogさんの「状況設定により発語内行為がされていない」という主張は、論理的な可能性を否定するものですから、論理的な可能性さえ言えれば、反駁したことになっていると思いますが、このままでは私の意見は、極端な懐疑論者の意見と同一視されかねません。そこで私は、物質的対象がふつうの意味で存在することを認めたうえでも、やはり他者の意図(意識)は虚構であるということを示そうと思います。


(追記部分 2008/7/8*5)
 ところで、この「反駁」には明らかに不備がありますね。この不備の発見はoptical_frogさんのブクマコメントに負うものですが、説明不足でしたので、注記しようと思います。
 まず確認ですが、私がへんだな、と思っているoptical_frogさんの主張は、ある事態が「状況設定により発語内行為がされていない」、というものです。この「状況設定により発語内行為がされていない」という主張は、正確にはなにを言っているのかをまず理解する必要があります。以下の2つの可能性があります:

  • (主張1)すべての発話主体候補について、発語内行為をしているということがない。
  • (主張2)実用的に検討が必要な範囲で、すべての発話主体候補について、発語内行為をしているということがない。

 このうち(主張1)について私は、「すべての」ということが言えていない(しかも原理的に証明できない)という形で、主張の不備を指摘しようとしたことになりますが(「意図の帰属の恣意性を認めるかぎり、意図の不在を言うことはできません」)、これではまだ、どちらであるか証明できていないだけで、ほんとうは

  • すべての発話主体候補について、発語内行為をしているということがない。

が成立している可能性はあります。これを明確に反証するには、少なくとも1つ発語内行為をしているものがあることを示せればいいのですが、それは容易なように思えます。つまり、恣意的に設定した発話主体に意図を帰属させてよいのですから、発話主体候補として、定義上発語内行為を行っているものを用意すればよいわけです。
 ところで、“定義上発語内行為を行っているもの”なんてあるでしょうか? たとえば、ごっこあそびにおける虚構の語り手というのは、それにあたるでしょう。あるいは、無意識なるものもそれに近いかもしれません。要するに、私たちの規約によってのみ成立するものであれば、“定義上発語内行為を行っているもの”となりうるのです。
 なお(主張2)についてですが、帰属の恣意性を認めている以上、「実用的に検討が必要な範囲」に限った(主張2)では不足です。このことは、optical_frogさんも認めていらっしゃると思いますし、だからこそ

  • (2)発語内意図が存在するとして、その意図を何に帰属することも可能であるというのは、有意義な主張ではない(これにより(a)と(b)とがトリヴィアルな主張になる)

を含めた2段構えの反論を構成されたのだと思います。そして、この(2)については、私も「(2)への反論 コンパニョンへの論駁のために」で、項を分けて論じました。
(追記ここまで)

他者の意識の虚構性と極端な懐疑論との違い

 極端な懐疑論者にとっては、他者の意識の実在も、物質的対象の実在も、どちらも同じように疑わしいものでしかありません。それらは我々の思い込みにすぎないかもしれないというわけです。しかし、物質的対象について言えば、我々は次のような議論で、その実在をあるていど確証することができます:

 ふだんは部屋の奥に置いてあるゴミ箱を、今朝は部屋の入り口に置いたまま出かけて、暗くなってから部屋に帰ってきた。帰ってきたときはゴミ箱はふだんどおり部屋の奥にあると思っていて、ゴミ箱につまづいてはじめて今朝のことを思い出した。このとき、もしゴミ箱の実在が私の思い込みだったとすれば、ゴミ箱が部屋の奥でなく入り口にあるのは不可解である。また、私を常にだましつづけている悪魔を想定するのは、オッカムの剃刀の原理から言って、よけいな存在者を想定することになり不合理である。したがって、ゴミ箱は実在すると考えるのが合理的だろう。

これと同様の議論が、他者の意識の実在についても成り立つでしょうか?

他者の意識の実在を擁護する議論1 奇跡論法

 上記の、物質的対象の実在を擁護する議論は、最良の説明への推論(アブダクション)と呼ばれるものです。あるいは、(またもパトナムを引き合いに出して)奇跡論法と呼んでもいいでしょう。つまり、

  • ある仮説以外には、奇跡(あるいはそれに類する信じがたい説明)によってしか説明できない事態が存在する。
  • 奇跡を信じるのは合理的でない。
  • したがって、問題の仮説を受け入れるのが合理的である。

という論法です。つまり、意識の実在を仮定することによってしか説明できない事態が存在するならば、意識の実在を受け入れることが合理的である、と言えるでしょう。
 ではそのような事態にはどんなものがあるでしょうか? たとえば、庭の石と異なり、ひとに話しかけると返事がある、という事態はどうでしょう? しかしこれは、我々の要求する事態ではありません。あるひとがひとに話しかけ、そのひとが返事をする、この一連の過程は、完全に物理主義的に説明できます。ある動物(ホモ・サピエンス)の脳のなかである物質の濃度が高まり、神経に電流が流れ、筋肉が運動して音を出し、その音が別の動物の鼓膜を振動させ……長々と書くまでもありません。「最良の説明」に、意識は必要ないのです。脳波の観測などの例も、基本的にはこの例と変わりません。聴覚的刺激によって脳状態に変化があったとしても、そこに意識の実在を要請する事態は見当たりません。

他者の意識の実在を擁護する議論2 人間原理

 他者の意識についてはさておき、我々は、我々自身の意識については、その実在を認めることができます。正確を期すなら、この議論は“我々”ではなく“私”と書かなければいけないので、この項では“私”を主語にすることにしましょう。
 さて、私の意識の実在を前提にすると、他者の意識の実在も、以下のような議論で擁護できそうに思えます:

  • もし私だけが意識を持っており、他者には意識がないとすると、私はとんでもない少数派に属することになる。
  • ほんとうは他者にも意識があるとすれば、意識を持つ私は多数派に属することになる。
  • 他に情報がないかぎり、私は少数派ではなく多数派に属すると考えるのが合理的である。
  • したがって、私だけでなく、他者にも意識があると考えるのが合理的である。

このままだと、ひとだけでなく石にも粒子にも意識を認めることになってしまいそうですが、じゅうぶん複雑な構造にしか意識は宿らないと考えるべき理由はありますから(唯一のサンプルである私の意識が、私の脳という複雑な構造体に宿っているのです)、この論法によって、私のような人間には意識が宿っており、石や粒子には意識がないことを認めることができそうです。
 しかし、上記の議論には誤りがあります。3点めの「他に情報がないかぎり、私は少数派ではなく多数派に属すると考えるのが合理的である。」という前提は、“私”というものが、意識を持つもの全体のなかから無作為に選ばれたサンプルであるときのみ有効です。しかし、“私”が意識を持っていない場合とか、“私”以外の意識の実在が確認できる場合というのはありえません。“私”は適格なサンプルではないのです。
 観測者が持つ性質によって観測される内容が限定される「観測選択効果」を考慮すれば、上記のような確率に訴えた論証もまた、他者の意識の実在を擁護することはできないのです。

他者の意識の実在を擁護する議論3 実用説

 最後に、他者の意識の実在を受け入れたほうが役に立つ、という線での擁護を検討してみましょう。
 ……しかしこの立場は、実用論的汎反意図主義者の受け入れているところでもあります。実用的には他者の意識が実在すると見なしたほうが利益を得られる、というのであれば、実用論的汎反意図主義者は、そう見なすことをためらいません。

まとめ2 経験的蓋然性を求めても、他者の意識は虚構でしかない

 以上の議論からわかるのは、経験的蓋然性を求めれば、物質的対象の実在を認めることはできるが、しかし他者の意識の実在を認めることはできない、それができるのは実用論的な立場のみだ、ということです。
 なお、意識の実在を擁護する3つの議論のうち、特に2つめについては、あまりうまく説明できていないかもしれません。「観測選択効果」「人間原理」については、哲学者の三浦俊彦の一連の著作(特に『多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス』)を参照していただけるとわかりやすいと思います。
 ちなみに、現状、心の哲学が問題にしているのは、こうした他者の意識の問題ではなく、“私”の意識の問題だと言えると思います。“私”にすら意識がなくても、この宇宙や人類史はなんの問題もなく進んできたはずなのに、なぜこの宇宙には“私”とかクオリアとかいうものが発生しているのか、どうしたら物理的でしかない宇宙に“私”なるものが発生しうるのか、という問題です。もちろん、私は心の哲学の専門家ではないので、このまとめが当たっているかどうかはわかりません。『感情とクオリアの謎』を読んだ感想です。

まとめ3 今後の展望

 以上の議論によって、私の提示した形での「実用論的汎反意図主義」が擁護されたと思います。この立場は極端な懐疑主義に基づくものではありませんし、その意味で(当初述べたように)外在的実在論と折り合いをつけることもできると思います。また、実用論的汎反意図主義は、言語行為論よりも強いことを述べています。
 長くなってしまいました。じつは実用論的汎反意図主義は、テクストの同一性をいかにして確認するかという問題を抱えているのですが、このことの解説は別の記事にゆずりたいと思います。