あなたのkugyoを埋葬する

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認識論とはなんのことなのか


 私はつねづね,ひとはダジャレからは逃れられず,そうであるからこそダジャレに警戒する訓練を積まねばならない,と考えています.ダジャレの危険のひとつは,それがまったく異なることがらを,あたかも関連あることとして,ひどい場合には同一のこととして描いてしまうことで,議論にあいまいさを呼び込み,混乱させてしまうことです.私は,「認識論」という語に含まれる「認識」という語が,ダジャレのこの危険を招いているように思えてしかたありません.


 私はふだん,「認識論」(Epistemology)という語を,「知識の哲学」(Philosophy of Knowledge)と完全に置き換えられるものとして読んでいます.これは,戸田山,*知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)*(2002)の強い影響下にある読みかただと思っています.
 いっぽうで,「認識論」という語は,一般的には,もっといろいろなしかたで使われています.たとえば,私じしん,以前に「創発性は(どんな性質が備わるかと)予想する受け取り手に相対的に見られる、認識論的なものだ」と書いたことがあります.ここでは「認識論的な」は,知識に関係していること,というよりは,受け手の考えかた・思いなしよう,と互換的なこととして扱われています.
 たしかに「認識」という語は,ひとをして,なんとなく,受け手の考えかた・思いなしよう,のことを想起させがちだと思います.こう言ってもいいでしょう,すなわち,「認識論」はしばしば(何かについての)「観念論」——これの対義語は,(何かについての)「実在論」です——と理解されてしまう語である,と.また,ここからさらに,枠組みに相対的なありよう,を想起してしまうひとも,けっして少なくはないでしょう.ですが,そのような想起は,「認識論的な」を知識に関する形で読む場合には起こらないはずのものだと思います.「認識論的な」を知識に関する形で読む場合でも,知識は信念の一種だと考えられますので,それはもちろん信念の抱き主によってあったりなかったりするものではありますが,当該の抱き主が信念を持っているかどうかは,ほかの何かに相対的に決まると呼ぶには,決まりすぎているように思います*1.このように,知識と考えかた・思いなしようととは,かなり違うものですので,似たような語でそれを指すのは,混乱のもとではないでしょうか.
 このような懸念は,私ひとりだけのものというわけではないと思います.たとえば,知識について論じた最近の文献である,植原,*実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用*(2013)でも,以下のような注意書きがなされています.

 以上はいうまでもなく、認識を世界の中で生起する自然現象として捉える「自然化された認識論」の見解を背景としている。それゆえ、分類の多元性が認識論上の問題であるというとき、「認識」の語に引きずられて、私がここで、N・グッドマン(Goodman 1978)のいうような枠組み相対主義と結びついた形での反実在論ないし規約主義へと向かっていると見るのは完全にまちがっている。何かを認識するというそのこと自体が世界の因果的構造において成立する実在的対象であり、したがってここでの多元性はそうした実在のあり方そのものを反映していると私はいいたいのである。

(植原,*実在論と知識の自然化*,2013,p. 70)

 植原の訴えるような“認識論の自然化”に同意するかどうかはともかくとして(私は同意しますが),このような立場が可能であることじたいが,「認識論」という語は枠組み相対主義や反実在主義と特に結びついてはいないことを示している,と私は思います.私は,そのような結びつけは誤解やあいまいさに直結した想起であり,避けるべきだ,と考えています.
 

 しかしながら,私が非難するそのような結びつけが,多くの場所でなされているのもまた事実です.もしかしたら,私の考えとは違って,「認識論」という語は知識の哲学と関係なく使うほうが適切なのかもしれません.その例になっていそうな文献として,近藤,“問題 - 認識論と問い - 存在論 ドゥルーズからメイヤスー、デランダへ”(in: *現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ*,pp. 58-73)を見たいと思います.


 近藤は,内在的合理主義を論じるメイヤスーとデランダとの2人の論者を紹介し,2人ともが同一の「潜在性」概念を,そしてその発露である「偶然性」をも援用した議論を行っていると要約するとともに,その2人の議論はどちらもが,「認識論的な観点」と「存在論的な観点」との区別をうまく行えていない点で瑕疵を持つと指摘しています.そしてその区別は,以下のような形で役に立つとされます.すなわち,ドゥルーズが言う「解」と「問題」との循環だけでは説明しきれない事態(「「問題」の技法をあらためて実践することが可能であること」,つまり,「問題」の展開は何の根拠も何の予定もなしに無から突如として——これが「偶然」の意味——生じるはずなのに,「問題」の展開を生じさせる技法があって,それを実践することもできてしまう,という事態)を説明する際に,「問題 - 認識論」だけでなく「問い - 存在論」を考慮する,という形で役に立つ,というのです.(ここで,たぶん「問題」はproblem, 「問い」はperplexionのことで,それぞれが異なるドゥルーズの用語であり,通常の用法とは異なる内実を持ちます.通常の用法との混乱を避けるため,私のこの文章では引用を除き,「問題」「問い」という語を使わないようにしました.)


 近藤ははじめ,(デランダのいう)「認識論」を,次のように特徴づけます.

認識論の問題とは,ここでは,認識された知識が,真に実在をとらえているのかいないのか,もしとらえていないのならば、認識の真の取り分とは何なのか、という一連の問題群である。

(近藤,“問題-認識論と問い-存在論 ドゥルーズからメイヤスー、デランダへ”,2013,p. 63)

私としては,知識は必ず真であり,したがって真に実在をとらえると答えるのが自明であるように思えます.ここで話題にされているのは,どちらかと言えば,実在の表象と実在との関係であるようです.とはいえ,知識の哲学において,表象が話題にならないわけではありません.たとえば,ある経験はある知識の証拠となることができますが,そうしてよい(信念の正当化に経験を使ってよい)のは,その経験がその知識の内容たる命題を真として 表象する からだ,というような主張があります.ですから,ここで近藤があげたような話題も,いちおうは「認識論の問題」の一部として理解できるだろうと思います.
 近藤はまた,次のような特徴づけも行っています.

 認識論とは、それ自体は有限なものでしかない人間の認識のありかたにとって重要な事柄を言葉でもって関係づけた言説的構築物である。ところで、古典的には、認識するとは妥当な観念をもつことである。

(近藤,“問題 - 認識論と問い - 存在論 ドゥルーズからメイヤスー、デランダへ”,2014, p. 68)

 私としては,一歩ゆずって「認識論 の対象である知識というのは,信念の抱き手によって真だと見なされた命題のうちの特別な一種であり,命題は言語的構築物であるかもしれないので, それ自体は有限なものでしかない人間の認識のありかたにとって重要な事柄を言葉でもって関係づけた言 的構築物である。」*2という主張として読めば,前半の主張を理解することができます.また後半も,「妥当」を「健全」(sound)に近いものとして読み,「観念」を信念と同一視して,「認識するとは妥当な導出かそれに近い形で正当化された,かつ真であるような,そんな観念をもつことである。」と読めば,理解することができます.


 とはいえ,このようなかなり強引な理解(といっても,整合的な理解はこれ以外ないと私は考えているのですが)によっていては,近藤の以下のような結論に得心することは難しいでしょう.

 第二の決定的な違いは、「問題 - 認識論」は、それが認識に関する限りにおいて、「構造」あるいは「対称性」を求めるのに対し、「問い - 存在論」には、「非対称性」が存続し続けるということである。別の言い方をすれば、「問題 - 認識論」は、十全な観念、すなわち真理を求めるがゆえに、その「問題」の内部においては必然性あるいは「対称性」を終着点とするし、それによってすべてを包摂し、「潜勢力」を尽くそうとする。このような「対称性」は思考の本性である。それに対して、「問い - 存在論」が主張することは、メイヤスーの言うような「非 - 全体」そのものが存在するということに他ならない(後略)

(近藤,“問題 - 認識論と問い - 存在論 ドゥルーズからメイヤスー、デランダへ”,2014, p. 71)

ここで,「潜勢力」を尽くそうとしても「非 - 全体」の存在がそれを許さない,という対立関係じたいは理解できます(ただし「潜勢力」にしても「非 - 全体」にしても,その内実が特に明らかにされているわけではないか,もしくは可能性概念についての誤解のうえに成り立ってしまっていると思ってもいます.).理解が難しいのは,「認識論」があたかも必然的真理についてのみ知識を得ようとする傾向がある・それを最終目標とする,と言っているように思えるところです.
 ここで言われている「認識論」が「知識の哲学」と置き換えられないとすれば,それはなんのことなのか——畢竟,私が理解できていないのは,そこのところなのです.
 満たすべき条件はいくつかあります.そのひとつは「認識論」が「存在論」と相補的な関係にあることです.私としては,知識の哲学は哲学のサブジャンルのひとつであり,存在論もまた哲学のサブジャンルの別のひとつである,と考えています.そして,哲学にはほかにもいくつものサブジャンルがあるため,この2つが特別に相補的な関係にあるとは思っていません.相補的な関係にあることができるのは,たとえば,法則についての反実在主義的態度と実在主義的態度とのような,同じ話題についての異なる前提にたった議論であろうと思います.しかし,私のこの意見に反し,「認識論」も「存在論」も,たとえば法則についての異なる前提(に立った議論)のことを指しているのかもしれません.そこはよくわかりませんでした.


 おそらく,「認識論」ということで私が考えていることが非常に狭くかつ偏っているのだと思います.虚心坦懐に読めば,近藤の議論はこれまでの「認識論」についての議論を正しく捉えており,あいまいなところなく定義されていることがわかるのかもしれません.ひょっとすると「必然的」も同様に誤解していそうです(これはカッコがついていないので通常の語だと考えたのですが)).ずいぶん見当違いのことを書いているかもしれません.専門家ではありませんので間違いを記しているかもしれません.ご指摘いただければすぐ訂正いたしますので,どうかお許しいただけますようお願い申し上げます.

*1:知識が正当化されている程度や,信念の内容がなんであるかが,文脈に相対的に決まる,という立場はもちろんありえますが,それは,何が真であるかが,信念の抱き主がだれであるかに相対的である,という立場とは違いますね.

*2:言説はふつうdiscourseで,言語的(構築物)はlinguistic constructsなので,両者はかなり違うと思う.