魂的因果関係の不在は可能世界を使って示せるか?
いつまでも学でないことを書いていても学は出てこないので、少しは世界に資することにしよう。予告どおりね。そう、犯行予告というのは、犯行がなされてはじめて、事後的に犯行予告であったと指定されるのであって、それまでは犯行予告ではないのではないだろうか……なぜフィクションを恐れるのか? という問題にからめて考えてみるといいだろう。
論題は、『「私」の同一性はなぜ実在しないのか』ってところ。最後にまとめをつけておきました。
完全に同一なコピーってなんだよ
何らかの方法で、「私」の完全なコピーを作ったとする。このとき、そのコピーの主観的意識は、「私」の主観的意識と同一だろうか。
当然ながら、答えはイエスである。なぜというに、「私」の完全なコピーというのは、たぶん定義上なにもかもが「私」と同一なのだから、それはとりもなおさず「私」そのものであるからだ(不可識別者同一)。「私」の主観的意識が「私」の主観的意識であるのはあたりまえである。
このように、トークン的(個物的)に同一なもの、というのであれば、これは簡単に指し示すことができる。四次元主義をとるにせよ何にせよ、ある個物を指示できるのであれば、それとトークン的に同一なもの、すなわちそのある個物自体を指示できるのはあたりまえである。
さて、じつは我々は、こういう自明なことを考えたかったわけではなかった。というわけで、「完全なコピー」などというものを考えるときには、実際に考えたいものをちゃんと考えられるように、「タイプ的(種的)に同一なもの」というのを考えなくてはならない。
しかし、タイプ的といっても、どのていど同一であれば、同じタイプ(今回の考察では「私」タイプ)に属すると言っていいのか。「人間」タイプに属する2個物は、「人間」タイプ的には同一であるが、もちろん「私」タイプ的に同一とは限らない。
つまり、どのようなタイプを設定するかによって、最初に述べた「完全なコピー」の意味あいは変わってくる。とりあえず今回は、「素材的に」同一なコピー、というのを考えよう。物理的に言えば、たとえば存在する位置座標などが異なるかもしれないが(異ならなかったら、それらを2つと数えることができない)、コピー元とコピーとで、それらを構成する素材は、まったく「素材的に」同一である、とする。原子でも陽子でもクォークでもいいが、考えうる最小粒子のレベルで、2個体の構成要素は同じ「最小粒子」タイプのトークンたちである、と考えるわけだ。
こうして「素材的に」同一ということを定義したので、ようやく、パーフィットの言うような転送機の思考実験のスタートラインに立てる。なお、スワンプマンの思考実験のあるバージョンでは、これは問題にならない。そのバージョンにおいては、落雷によってデネットを構成する要素は完全に分解され、そして空中に四散したまさにその要素がなぜか再集合し、したがってトークン的に同一の要素がスワンプマンを構成するからだ。
さて、このようなコピー元とコピーとが、1つの主観的意識を持つことを仮定すると、いったいどうなるか見てみよう。コピー元とコピーとは素材的に同一でありさえすればいいので、コピー元とコピーとが存在する位置は、それぞれ異なりうることを、さきほど確認した。すると、コピー元とコピーとのあいだにある距離を、1つの主観的意識はどのように克服するのだろうか?
ここでいったん、素材的に同一のコピーの主観的意識の話ではなくて、「私」が、離れたところにいる鉄人28号を操る場合を考えてみよう。「私」がリモコンで鉄人28号を操る場合、主観的意識はある肉体(ふつう「「私」の肉体」と呼ばれる)を通して感覚しており、鉄人28号がどれほどボコボコにされても、「私」は主観的に痛みを感じない。しかし、鉄人28号がボコボコにされると、電波を通じてリモコンから「私」に「痛覚」刺激が与えられる、ということならどうだろうか。あるいは、このリモコンが「私」の肉体内に埋め込まれ、しかも「私」がその埋め込まれに気づいていない場合はどうだろうか。
こうした場合、「私」は思考実験の要請上、とにかく痛みを感じるはずだが、どこが痛むのかはわからないかもしれない(その主観的経験を痛みとはもはや呼べないかもしれない)。あるいは、埋め込まれたその箇所が痛むのかもしれない。しかし、「私」がその状態で鉄人28号とともに暮らすとしたなら、「私」は鉄人28号がボコボコにされると、「私」が主観的に痛みを感じる、という関係を発見するだろう。鉄人28号の頭が殴られたときの刺激と、鉄人28号の背中が殴られたときの刺激とが別の刺激であれば、「私」は鉄人28号がどこを殴られたのかさえわかるようになるだろう。こうなってくると、「私」の肉体には、鉄人28号が含まれることにさえなりそうである。
さて、じつはここで私が確認したいのは、このような「私」の肉体の拡張が現実に起こりうるかどうかではない(起こると思われる根拠として、幻肢など脳科学の分野の知見をあげることはできるが)。いま確認されたのは、もし2つの肉体(「私」の肉体と鉄人28号と)が1つの主観的経験を持つなら、2つの肉体のあいだには何らかの物理的な因果関係(この場合は電波)がなくてはならない、ということである。
もし何らの物理的因果関係もないのに、ある肉体に起きたことがある主観的意識に主観的に経験されるとすれば、物理的でない因果関係、たとえば魂的因果関係のようなものを認めざるをえない(このことから、心の哲学にはさまざまな立場が生まれた)。同様に、もし2つの別の肉体が1つの主観的意識を共有するとしたら、2つの別の肉体、コピーとコピー元とは、離れた位置にいるのだから、我々は魂的因果関係を認めざるをえないはずである。
ただし、離れた位置にいても、何らかの物理的な因果関係(のうち、情報を伝えうるもの)によって、コピーとコピー元とは結ばれているかもしれない、といった反論はありうる。しかしその場合には、話は鉄人28号の例に帰着してしまうだろう。
また、物理的対象から主観的意識へ伝わるのは情報ではない、という反論もありうるが、それもけっきょくは物理的対象と主観的意識とのあいだの特別な因果関係を設定せざるをえない。
人間のコピーの場合には、コピー元だけでなくコピー先のほうにも主観的意識があり、それが鉄人28号とは異なる、という議論には、鉄人28号がロボットでなく人間である場合を考えれば応答できるだろう。そうなった場合、「私」はたしかに主観的に鉄人28号(という名前の人間)の肉体に生じたことを痛みという形で主観的に経験するだろうが、それとは別に、鉄人28号(という名前の人間)も痛みを主観的に経験するはずで、すると、「私」の痛み(やその他の主観的経験)と鉄人28号(という名前の人間)の痛みとがつねに一致する、というのでなければ、「私」と鉄人28号とが同じ主観的意識(そしてそれのみ)を共有する、とは言えない。そして、「私」と鉄人28号とでは位置座標が異なる以上、たとえば見える景色が違うのだから、同じ主観的意識(そしてそれのみ)を共有することはない。
したがって、ある主観的意識が「私」の肉体と鉄人28号の肉体との状態を主観的に知ることができるとすれば、「私」の肉体と鉄人28号の肉体とのあいだ、あるいは肉体と主観的意識とのあいだに、物理的でない因果関係が、すなわち魂的因果関係があることになる(後者の場合には、ひょっとしたら主観的意識というのは、肉体を離れてふわふわ漂っているのかもしれない)。
さてじつは、このこと自体によって背理法が発動するわけではない。つまり、魂的因果関係があるというのは不合理だから……とは言えないからだ。「私」と素材的に同一なコピーを作ってみたら、なんとびっくり、いままで知られていなかったけれど魂的因果関係があることがわかった、ということにならないという保証はない。いささかオカルトめくが、素材的に同一なコピーの近似物として双生児を考えれば、何千マイルも離れて暮らしていた双生児の片方が、もう片方の有事に虫の知らせのように気づく、ということもあるらしいではないか……。
では、素材的に同一のコピーを作ってみなければ、「私」と「私」のコピーとの主観的意識(の同一性)の問題は解決できないのだろうか?
可能世界参上!
いや、そんなことはない。様相実在論をとれば(現状、可能世界という概念についてもっとも合理的な立場だと思う)、この現実世界でコピーを作らなくても、とある可能世界においてはそのようなコピーがすでに実現しているはずだからだ。可能世界は実在するとすれば非可算無限個あるので、そのなかには当然、「私」コピーが実在する(そういう命題が真である)可能世界がなくてはならない。
さきほど、もし「私」と「私」のコピーとの主観的意識が同一なら、「私」と「私」のコピーとのあいだに物理的距離があっても問題にならないことを確認した。この物理的距離というのはどれほど遠くてもよいし、これは距離に限った話ではなく、魂的因果関係さえあればよい。ということは、さらに物理的因果関係を引き離してしまってもよいだろう。つまり、物理的因果関係がまったくない2つの可能世界(これは可能世界の定義上そうである)どうしでも、魂的因果関係がありさえすれば、現実世界の「私」と可能世界の「私」コピーとは、主観的意識を共有するはずである。
ところが現状、そういうことは起きていない。したがって、ある主観的意識は、「私」のコピーがいまどういう状態であるかについて、主観的経験を共有することはできないことがわかった。魂的因果関係など、じつは存在しないのである。
可能世界破れたり?
……と、以上の議論には、じつは大きな穴がある。
まず、前節の議論では、様相実在論を前提としていたが、議論を完全に逆転させることができる。つまり、この現実世界で「私」のコピーを作ってみたら主観的経験が共有されてしまった、ということが起これば、様相実在論が偽だったと証明されるのである。
また、ひょっとしたら、我々は日常的に、ほかの可能世界の「私」コピーと主観的意識を共有しているように思うけどなー、と直観しているひともいるかもしれない。
そしてそれよりも大きな問題は、前節の議論が、それぞれの可能世界が因果的に閉じていることを忘れていることである。可能世界が破れてしまっているのだ。より正確に言えば、それぞれ可能世界は物理的にももちろん因果的に閉じているのだが、いま魂的因果関係というものを導入したからには、それぞれの可能世界は魂的にも同様に因果的に閉じているはずなのである(もしくは、そのように可能世界を定義しなおしてから議論する必要がある)。
物理的には因果的に閉じているが、魂的には因果的に閉じていないものを、可能世界と呼ぶことはできない。それらはおそらく、ある可能世界のなかにある、宇宙のようなものだろう。ただし、現実のこの宇宙が物理的に因果的に閉じているかどうかはちょっとよくわからない(ほとんどは定義の問題なのだが、宇宙物理学の探究結果にも少し依存する)ので、こうしたもの、物理的に閉じてるけど魂的には閉じてないものを、「次元界」と呼ぶことにしよう(宇宙と次元界とを比較する必要は、いまはない)。すると、我々が住んでいるのはほんとうは、この現実世界のなかの、ある次元界であることになる。
この現実世界(可能世界の1つだ)は、我々の住むこの次元界以外の次元界を含むかもしれないし、含まないかもしれない。ほかの可能世界についてもそうで、次元界を1つしか含まない可能世界、2つ含む可能世界、無限個含む可能世界……が考えられる。
すると、前節の議論をうまく生き延びさせるためには、この現実世界が、じつは次元界を無限個含む可能世界だった、ということがわかればよい。可能世界に関する議論を次元界に関する議論にスケールダウンさせるわけだ。そして、それを言うためには、すべての可能世界のうち、次元界を無限個含む可能世界が無限個あり、次元界を有限個だけ含む可能世界は有限個しかない、ということが言えればよい(我々は多数派に属すると考えるのが合理的だから、無限個あるほうに属する主観確率は1である)。つまり、次元界を有限個だけ含む可能世界が無限個あると仮定して、矛盾を導けばよいはずだ。
しかし、これの論証は不可能である、というか、次元界を有限個だけ含む可能世界は、無限個ある。次元界を1つだけ含む可能世界を考えれば、これはこの議論がなされるまえに(魂的因果関係とかいいうものが導入される前に)議論されてきた、ふつうの意味での可能世界と、なんら異なるところがない。さて可能世界は無限個あるのだから、次元界を1つだけ含む可能世界もやはり無限個あることになり、したがって、次元界を有限個だけ含む可能世界は、無限個あるのである。
しかし、無限個の次元界を含む可能世界に含まれる次元界(豊穣次元界)と、有限個の次元界しか含まない可能世界に含まれる次元界(希薄次元界)とでは、私達はどちらに属していると考えるのが合理的だろうか? 希薄次元界のほうが豊穣次元界よりも圧倒的に少ないのではないか?
じつは、こうした推論こそ、三浦俊彦が「必然・可能・現実―様相の形而上学」(『岩波講座 哲学〈2〉形而上学の現在』収録)で犯した誤謬推論*1と同型の推論である。有限個の次元界しか含まない可能世界は無限個あるのだから、有限個しか次元界を含まない可能世界に含まれている次元界(希薄次元界)も、無限個の次元界を含む可能世界に含まれている次元界(豊穣次元界)同様に無限個ある(同様に、というのはつまり、全単射が成り立ってしまう、ということ)。したがって、我々がどちらの次元界にいやすいか(どちらの次元界に属していると考えるのが合理的か)は、この推論からはわからないのだ。
けっきょく主観的意識の問題はどうなっちゃってるのか
以上から、可能世界を使っても、「私」と「私」のコピーとの主観的意識について何か言えるわけではないことがわかった。では、将来ひょっとしたらほんとうに魂的因果関係のようなもの、既存の物理的因果関係でないようなものが見つかるおそれがあるのか。
しかし、そんな因果関係が見つかったとして、それすらも、チャーマーズや三浦俊彦らの立場のように、新たな物理法則(精神的物理法則)として、物理的因果関係に組み込んでしまう、自然主義的に扱ってしまうことができるはずだ*2。じっさい、「私」の素材的コピーを作ってみたら物理的に隔たったところの痛みを主観的に経験しちゃった! なる事態が生じたとすると、チャーマーズの言うような法則の探究の可能性が出てくるので、それはそれで都合がよかろう。
こういうわけで、「私」は素材的コピー実験を推進する提言をして、この魂的因果関係に関する記事を終わるのだが、最後に、この素材的コピー実験は、単純化したバージョンでは無意義であることを指摘しておく。たとえばナメクジの卵を捕まえて、そのクローンを作り、成長したナメクジたちの片方をつついてみた、という実験ではなんにもならない。よしんばナメクジに主観的意識があったとして、この主観的経験の共有が見られなかろうと、「魂的因果関係は、人間ほど高等な意識についてのみ発動するんだよーん」という逃げ道がありうるからだ。また、素材的なコピーというのも、概念として怪しげではないが、実際問題として作成不可能なものである。細胞タイプが同じコピーを使えば、パーフィットの提示した思考実験には対応できるかもしれないが、パーフィットは細胞より細かい粒度レベルへ後退できる。そのため、細胞の情報より粒度の細かいものは、人間にとって本質的ではないことを示す、などして、パーフィットの後退を許さないようにしなくてはならない。しかし、そのような議論ができるとすれば、議論全体が循環してしまうようにも思える。
リトルウェイちょっと待って!
ところで、この実験は、「私」自身を実験台にして行わなくてはならないだろうか? というのも、ここまでの議論はすべて、主観的意識や主観的経験に依拠していたからだ。
しかし、「私」の主観的意識の同一性とは、じつは明らかな概念ではない。というのは、過去(一瞬前でよい)の「私」の主観的意識と現在の「私」の主観的意識と未来(一瞬後でよい)の「私」の主観的意識とでさえ、それが同一であるかどうかはわからないからだ。はっきり言えば、現在この瞬間以外は「私」にさえ主観的意識はなく、いるのは哲学的ゾンビだけである、という可能性すらある、ということだ(三浦俊彦「人間原理的クオリア論」における、永井均『なぜ意識は実在しないのか』批判のキモはここである)。
つまり、「私」の主観的意識の同一性についてさえ、それを「私」は主観的に考えることはできない(意義がない)ということになる。「私」の主観的意識の同一性の問題は、けっきょく客観的な人格の同一性の問題に帰着するのだ。
まとめ
- 同一とかコピーとかいうときにはトークンとタイプとを区別しないとまずいよ。
- 物理的につながってない2つの肉体が同じ主観的意識を持つなら、物理的でないつながりがあるはずだよ。
- 人類を救う様相実在論も、今回は役に立たなかったよ。
- さっさと人間の素材的コピーを作ってみたらどうだよ。でもそれでなんか変なことが起きても自然主義の手の内だよ。
- 「私」の同一性の問題は人格の同一性の問題と同じだよ。
- 宇宙でも可能世界でもない単語選びには苦労したよ。
参考文献
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