あなたのkugyoを埋葬する

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創発?(創発とStigmergy)

 "創発"emergenceの特徴づけはさまざまである。たとえば、「個々の行動ルールのみでは発現せず、個々の行動ルールの集合行為としてとらえた場合にはじめて現れるような特性」(大内, et al., 2003, p.20)とか、「対応するシステムの構成要素を持たないシステム特有の全体的な性質」(高橋, 2007, p.17)とかである。この概念はG. H. Lewes(1879)が導入したとされる(ただし同様の概念はJ. S. Millにも見られるらしい。[Mill, 1943][O'Connor & Wong, 2006]を参照)。たとえば、生きているという性質は、細胞の創発的性質である。細胞システムは生きているが、細胞の構成要素はどれも生きていないからである(生命の定義は、マーナー, ブーンゲ, 『生物哲学の基礎』, 2008, p.178によった)。
 重要なのは、大内らの定義に見られる、「としてとらえた」という表現である。この表現や、前述の「構成要素からは予想できず」という表現からは、創発性は予想する受け取り手に相対的に見られる、認識論的なものだ、と考えられていることが読み取られる。
 では、存在論的な創発性というものはないのだろうか? これがあるということを力説する、マーナー, ブーンゲ『生物哲学の基礎』を確認してみよう。


 性質には創発的性質のほか、結果的性質(部分のいくつかによっても持たれる性質)、集合的属性(知る主体に依存する統計的性質)、などがあると、マーナーらは述べている(『生物哲学の基礎』p.37)。たとえば、生きているという性質は、多細胞生物の結果的性質である。多細胞生物の構成要素である細胞システムも、やはり生きているという性質を持つからである。またたとえば、平均身長が90cmであるというのは、ヘビの個体群の集合的属性である。個々のヘビはそのような性質を持たないし、個体群全体も、そのような性質を持たない。
 マーナーらはここで、実体的性質と概念的属性との違い、存在論的カテゴリーと認識論的カテゴリーとの違いを力説する。注意しなければならないのは、性質は物によって持たれることしかありえない、ということだ。概念的な構築体は性質を持たないのである(したがって集合的属性は、性質ではなく、述語である)。マーナーらは、個々のヘビは物だが、多くのヘビの統計的集合体というものじたいは構築体であり、ほんとうに存在すると言えるのは物である個々のヘビだけだ、というのだ。
 マーナーらは生物哲学者らしく、ヘビは物であり、その下位にある器官も物であり、その下位にある細胞システムも物であり、もちろんその細胞システムを構成する分子も物である、と言う。ここまではいちおう整合的である。しかしマーナーらは加えて、システムとしての個体群は物だが、統計学的母集団としての個体群は物ではなく構築体だ、と言う。だが、この区別はどれほど整合的であろうか。
 先に、ヘビや器官や細胞システムやといったような日常的対象ordinary objectsすらも構築体だ、という方針での反論を片付けておこう。この反論は、ヴァン・インワーゲンが提唱した、日常的対象についての虚構主義、に見ることができる(van Inwagen, 1990)。この議論によれば、「ここにはテーブルがある」という発話は、「テーブル状に集まった単純者simplesがここにある」という主張の省略形である。同様に、素粒子のような根底的な単純者だけが物(具体的存在者)であり、ほかはすべて便利な言いかた(使える虚構)にすぎない、という議論は、成功するだろうか。サイダーが1つの問題を提起している(Sider, 1993)。つまり、この世のもの(のように見える集まり)がほんとうは単純者から成っているのではなく、どこまでも分解していくことのできるネバネバgunk)から成っているのであったら、我々はほんとうは何をも指示できないことになってしまうぞ、という問題である。もしこの問題を受け止め、かつ、すべてのもの(もはやものとも呼べないのだが)が概念的な構築体であるわけではない、という直観を認めるのであれば、ヴァン・インワーゲンの心配は杞憂であると言わざるをえない。同様に、ヘビが物であることも認めてよい、ということになるだろう。
 しかしそれでは、それより上位のほうはどうなるのだろうか?
 まず、統計学的母集団としての個体群は、物ではないのだろうか? じつは、ここでマーナーらが述べているのは、クラス(集合)とその成員とを分けて扱うべきだ、ということであると思われる。集合は、物の集めかたのことを言っているのであり、これは概念的な構築体である(p.30)。しかし、そのようにして集められた物のほうは、存在論的に実在する物である。統計学的母集団は構築体である、と言うとき、マーナーらは文字どおり、母集団という集めかたは構築体である、と言っているのであり、統計学的母集団に属する個々の物については、何も言っていない。
 これはこれでよい。だが大きな問題となるのは、システムは具体的な物である、という主張のほうである。この主張はマーナーらにとって重要である。なぜなら、システムが具体的な物でなければ、システムが創発的性質を持つことはできないからである(性質を持つのは物だけであるから)。そしてマーナーらは、この主張の論証に失敗しているように思える。問題なのは、マーナーらが敵として見なす唯名論(システムは概念的な構築体であり、存在する物ではない)が、ふつうの唯名論ではないことであるようだ。そして、この主張が失敗しているとすると、創発的性質は存在論的カテゴリーに属するとするマーナーらの主張は、成功していないことになるはずである。
 存在論創発がありえないとすれば、創発はせいぜい認識論的でしかありえないと思われる。その場合、創発的性質はむしろ、認識論的新奇性とでも呼ばれるほうがふさわしいだろう。たとえば、“創発民主制”などの呼称は“新奇民主制”と呼び変えてみると、こっけいさが露になる。どこが新奇なのかを言わずに創発という語彙を使うことには、実質的な意味がほとんどないのだ(伊藤, 2003)。