虚構とはなにか
このまえやった勉強会のレジュメの一部を公開します。リアルとかリアリティとかリアルリアリティとか言ってるひとたちの参考になるといいです。リアリズムって言ってるひとたちの参考にはならんでしょうな、このレベルでは。
(前略)
ところで、ここでいう虚構とはいったい、なんであろうか。
共通点として、「対応する対象が、この現実世界に存在しない」という点を捉えたとしても、虚構という語の使われかたはなおいくつかの種類に分けることができる。ということは、それらの分類のうちどの「虚構」について議論しているのかを明確にしなくては、そもそも議論が成り立たない、ということだ。
今回はさしあたり、「虚構」を以下の3種に分類してみよう。すなわち、「暴ける虚構」「浸れる虚構」「使える虚構」の3種である。
第1に「暴ける虚構」について。「世界経済共同体党の虚構を暴く」のように、うそ・いつわりといういみで使われる場合である。この種の用法で「虚構」が使われた場合、
- (1) xは虚構である。
という文に対して、我々はxを偽とし、受け入れないことによって、ある種の利益を得ることができる(たとえば、世界経済共同体党の真実を知り、投票に反映させるなど)。暴くことに意義がある点、虚構であると指摘されると価値を大きく失う点が、「暴ける虚構」の特徴である。
第2に「浸れる虚構」について。「暴ける虚構」とは異なり、虚構であると指摘されても特に価値を失わないのが、この「浸れる虚構」の特徴である。
- (1a) スーパーマンが空を飛ぶ、というのは虚構である。
- (1aa) そうだよ。それがどうしたの。
というように、この「浸れる虚構」については、虚構であることが暴かれても何の問題も起こらない。というよりはむしろ、すでにそれが虚構であると知ったうえで、人々はこの種の虚構を受け入れ、虚構の世界に入ったり浸ったりして楽しむのだ。たとえば文学作品のことを「虚構」と呼ぶのは、主にこうした「浸れる虚構」として扱う場合である。ただしもちろん、文学作品を「暴ける虚構」として扱う場合もありうる。こうした区別に気をつけないと、
- (1b) あれほど放射線治療を受けたのに髪が抜けない、というのは虚構である。
- (1ba) いいじゃないの、虚構なんだから。
というような、かみ合わない論争が起こりがちである。
第3に「使える虚構」について。上記の2種類の「虚構」のほかに、もう1つの分類を考えることができる。たとえば、
- (1c) 社会の構成員は社会と契約を行った、というのは虚構である。
という文について考えてみよう。このことが暴かれても、「暴ける虚構」のときのように、社会契約説の価値が減ずる、というようなことはなかろう。しかし、では(1c)は「浸れる虚構」の例かというと、そうとも言えない。(1c)のような「虚構」と「浸れる虚構」との大きな違いは、 (1c)を偽であると知りつつ受け入れることで、我々は強い便益を得られる、という点である。たとえば社会契約説を受け入れることによって、政治学・法学において前進があったと言えそうではないか。(1c)のような「虚構」は「使える」のである。
さらに、「使える虚構」は、棄却されることもありうる、という点が「浸れる虚構」と大きく異なる。例をあげて説明しよう。
光を媒介する物質としてエーテルを措定した科学理論Hに基づいた、科学的な説明について考える。この説明は、エーテルが発見されるまでは、
- (2a) (エーテルという理論的存在者を含んだ)理論Hを認めれば、xである。
という形のものだったはずである。これを書き換えて、
- (2b) 理論Hという虚構によれば、xである。
のように解釈することができる。注意しておくが、この段階ではエーテルは発見されていないので、エーテルはあくまで仮設された理論的存在者としてしか扱われえない。
さてこのたび、エーテルなしでも光のふるまいを説明でき、しかも理論Hと数学的に等価な理論Qが提出されたとしよう。すると理論Hは、理論Qをとれば不要な仮定(エーテルの存在)をおいているため、無意味に複雑な理論であることになり、棄却される。理論Hという「使える虚構」が、理論Qという「使える虚構」によって取ってかわられたのである。
このように、「使える虚構」は、「浸れる虚構」と異なって、より精緻な「使える虚構」によって棄却される場合がありうる。「浸れる虚構」についても、個人についてはより楽しめる「浸れる虚構」へと移行することは考えられるけれども、この場合に、もとの「浸れる虚構」が棄却されたのだ、という言いかたはそぐわない。こうして「使える虚構」と「浸れる虚構」とは分けられるのである。
こうして、「暴ける虚構」「浸れる虚構」「使える虚構」という区別を見た。むろん、1つの対象がこの3種のうち複数に属しうる、ということはある。「暴ける虚構」と「浸れる虚構」とはしばしば混同されるし、「浸れる虚構」と「使える虚構」との区別にしても、たとえば完全に矛盾した文を含む「浸れる虚構」は棄却されるのではないか、誤字が入った「浸れる虚構」は訂正可能ではないか、という議論はできよう。*1
さらに、隠喩のような例はより微妙である。隠喩は文字どおりにとれば明らかに偽だが、それを承知で我々は平然と隠喩を利用する。ということは、隠喩はここでいう「虚構」の一種であると考えることができるだろう(腹の虫が存在するだろうか?)。不適当な隠喩というのはありうるだろうから、「使える虚構」に分類されるのだろうか。もし不適当な隠喩というのがありえないとすれば、隠喩は「浸れる虚構」に分類されるのではないだろうか。
ただし、3種類の「虚構」を決然と区別できないとしても、これらの特徴を議論に応じて見出せるということは、ここまでで明らかになったように思う。
さて、ふつう虚構について議論がなされる場合、それは主として「浸れる虚構」についてであると思われる。また「暴ける虚構」については、特に問題がありそうには思えない*2。しかし、「使える虚構」については、なお説明が必要である。
「使える虚構」をよりはっきりと特徴づければ、以下のようになるだろう。ある種の談話discourseでなされた主張について、それを文字どおりに真であることを目的とした主張であると捉えるよりも、一種の「虚構」であると捉えるほうがよい。
こうした考えかた一般を、虚構主義fictionalismと呼ぶ。この勉強会では、
- どんな種類の虚構主義があるのか?
- 虚構主義をとると、どんなメリットがあるのか?
- 虚構主義の是非について、どんな議論があるのか?
を、「Fictionalism (Stanford Encyclopedia of Philosophy)」を参照しながら概観する。
(後略)
ところで、分類についていつも問題になるのは、その分類で尽くされているのか、ということだと思うけど、今回はそれを示すのが難しかったので、勉強会の参加者に「虚構」を使った例文を作ってもらい、考案された例文での使われ方が上記3つの分類によって説明できることを示して、論証のかわりとしました。
「教科書の例文は虚構ではない」なんて例文が出てきて、勉強しとるなあこいつめ、と思いながら解釈しましたが、演算子¬を深く検討しなかったのはミスでしたね(メールでフォローしました)。
なお、さっき訂正した「様相虚構主義の主張は、必然的か、偶然的か? 〜Hale's Dilemma〜 - kugyoを埋葬する」は、勉強会のとき話に出た虚構主義の難点について、その場では知識不足で解説しきれなかったぶんを補足したものです。
*1:(Goodman, 1978)など参照。邦訳は『世界制作の方法』。
*2:ただし以下参照。The Definition of Lying and Deception (Stanford Encyclopedia of Philosophy)