『存在と時間』5章28-29節
このレジュメは、Martin Heidegger: Sein und Zeit(1927)への読書会のためのレジュメである。今回の読書会にあたって主に参照している訳書は、
- 細谷貞雄(訳), マルティン・ハイデッガー(著): 存在と時間 <上>, 筑摩書房(1994).
- 『存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)』
である。以下では単に『存在と時間』と記す。
また、難解な箇所の読解の助けとして、下記のコメンタリーを適宜参照した。
- 門脇俊介: 『存在と時間』の哲学I, 産業図書(2008).
- 杉村靖彦, et al.(訳), ジャン・グレーシュ(著): 『存在と時間』講義 ―統合的解釈の試み―, 法政大学出版局(2007).
- 門脇俊介, et al.(訳), ヒューバート・L・ドレイファス(著): 世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学, 産業図書(2000).
- 長谷川西涯(訳), マイケル・ゲルヴェン(著): ハイデッガー『存在と時間』註解, 筑摩書房(2000).
- 『『存在と時間』の哲学〈1〉』, 『『存在と時間』講義―統合的解釈の試み』, 『世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学』, 『ハイデッガー『存在と時間』註解 (ちくま学芸文庫)』
下記では、著者名をとり、順に「門脇本」「グレーシュ本」「ゲルヴェン本」「ドレイファス本」と表記した箇所がある。どうしてどの本もタイトルに2重かぎかっこを入れるのか。
第5章 内=存在そのもの
第28節 内=存在を主題的に分析する課題
現存在はおのれの開示態を存在する。
- おのれの「現」を存在する。
- 現存在を現存在たらしめている、根源的な世界へのかかわり方が「開示性」(門脇本p.115)
そこで、「現」ってなに? という課題が登場する。
- 現の存在の解明(内=存在そのものの解明)を担当するのがこの第5章。
- (世界=内=存在、については第4章でやったはずですね)
A 現の実存論的構成
現存在にとって、現とはどういうものか。
- 1. 心境としての現=存在(第29節)
- 2. 心境のひとつの様態としての怖れ(第30節)
- 3. 了解としての現=存在(第31節)
- 4. 了解と解意(第32節)
- 5. 解意の派生的様態としての言明(第33節)
- 6. 現=存在、話、言語(第34節)
- (この「話」は、「ハナシ」と読んでいいみたい)
この章のハイデガーの議論を別の分け方で見れば(門脇本p.115)
- 1. 人間の受動的側面を表す「心境」
- 2. 人間の能動的側面を表す「了解」
B 現の日常的存在と現存在の頽落
(現=存在の存在性格の分析は実存論的分析なので、現存在の日常性におけるありさまを取りだす必要があります)
- 1. 世間話(第35節)
- 2. 好奇心(第36節)
- 3. 曖昧さ(第37節)
- 4. 頽落(第38節)
第29節 心境としての現=存在
・心境(情状性Befindlichkeit)の本質性格その1(心境は、被投性を開示する)
- ある人が、あることについてある気分になるとき、その由来についてはあまり考えない。
- 由来…e.g. 「女性らしく生きること」を引き受けるような拘束力を持つ文化のうちで育てられた(門脇本p.119)
- 事実性(現事実、Faktizitat)
- この気分によって開示されるのは、自らの可能性が「とにかく(このようで)ある」ということ
- ここで開示されたのが、被投性(Geworfenheit)
- ほかのようでもありえたのに、そうではなくこのようでしかない…不可能性ともいえる
- このことが本人にも認識されるとは限らない(p.293)
- この事実性(自らの可能性と状況とのつながり)は必然的なものではない
- ある客体的なもののなまの事実の、「事実性」ではない(p.295)とはこういうこと。
- したがって直観から導出されるような必然的な帰結ではない。
- ある客体的なもののなまの事実の、「事実性」ではない(p.295)とはこういうこと。
- 自らの被投性を直視すると、気分は消えてしまう
- ちゃんと由来があったじゃん! ほかのようでもありえたじゃん! と気づける
- これは気分を経由しなければ気づけないこと
- 知識や意志による、合理的な推理や事実の理論的な把握だけでは気づけない(pp.296-297, 門脇本p.121)
- 気づけば、由来を改めて選び取ることも、別のありようを選びなおすこともできる
- ちゃんと由来があったじゃん! ほかのようでもありえたじゃん! と気づける
- 逆に、自分の被投性を直視しないうちは、ふさぎ(Verstimmung)が現存在を襲ってくる
- 自分に課されたもの(由来)のせいで、ほかのようでもありえたのにそうでなくある、なんちゅうこと……。
- そして現存在は、恐れの気分にあるとき、(ほんとうは)被投された非力さのゆえに恐れ、開示されているのだが、
- その非力さにではなく、脅かしてくる対象に注目し集中する。
- 「回避的背理」(p.297)とはこの、回避しつつ、(被投されたことには)頓着しない、というしかたのこと。
- 脅かしてくる対象、については心境の本質性格その3で。
- 恐れ(怖れ)については第30節で。
- 「回避的背理」(p.297)とはこの、回避しつつ、(被投されたことには)頓着しない、というしかたのこと。
・心境の本質性格その2(心境は、世界内存在の全体を開示する)
- 感情が開示し、認知させるものは、自己と、世界内の存在者とである(門脇本p.124)
- 世界内に存在するのはこれで全部だね。
- 主観の内面における心的な出来事ではなく、世界内存在を開示しているよ。
- ところで、感情が自己を開示するというのは被投性(由来)を開示するからいいけど、
- 世界内の存在者を開示するってどういうこと? いつ議論したっけ?
- それは、心境の本質性格その3で議論するのです。
- 門脇本の解説はその3を先に議論してからその2へ進む親切な構成です。
- それは、心境の本質性格その3で議論するのです。
・心境の本質性格その3(心境は、影響を及ぼす存在者を開示する)
- 気分は襲ってくるもの
- 世界は、初めから、驚かすものという位相のもとで認知される(門脇本p.122)
- 感情と無関係な外界についての認知が起こり、それが自己の内面で主観的な述語に彩られる、のではない
- 道具の現れかたといっしょだね。
- 感情と無関係な外界についての認知が起こり、それが自己の内面で主観的な述語に彩られる、のではない
- 心境があるから、物騒なものという形で世界(e.g. 核施設の事故)を認知することができる。
- 事故の確率を予測する機械は、事故を恐れてはいないよね、という議論。
- 純粋な直観も、つまり、合理的な推理も、機械と同じ。(pp.299-300を見よ)
- 用具に迫られる(襲われる)という形で内=存在が規定されているから、用具が物騒だ、ということで打たれる
- 用具の議論にもつながっていたのですね。
・さて、ハイデガーの論述はなにを目的とし、どんな方法をとっていたんだっけ?(この節のまとめ, ゲルヴェン本p.179-)
- 1. 現存在が世界における自己自身に気づくときには、現実のもつ変更可能性に影響されて気づくのだ、と示すため。。
- これが心境を現存在の実存論的カテゴリーとして分析することの目的の1つ
- 2. 心境は、ただの感情ではない。
- 心理学的記述ではだめ
- 平静な人間存在の瞬間(「感情を排した」冷静な探究)でさえ、心境は重要な要素
- 心理学的記述ではだめ
- 3. 現存在の実存が、可能性と現実性とに気づくのは、いかにしてか、という説明をする。
- 現実性も可能性も共に現存在にとって重要なのでしたね。
- 現存在が現実的(可能的でない)実存に気づくのは心境によってだ、という説明がされました
- 可能的実存に気づくのは了解によってだそうです、第31節以降で!
- すると重要なのは、心境は本来的実存にも認められる存在様態であるということ
- 非本来的実存だけが感情にまどわされている、のような理解はまちがい。
- 4. 心境とは、現存在に関わりのある世界、の基盤である。
- 心境の本質性格その3でやりましたね。